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ベートーベンの『第九』をフォーカシング的に聴く : 公式動画で解説

以前からフォーカシングのワークショップで、「共鳴のステップ」を理解してもらうために、ベートーヴェン『第九』(Beethoven, 1824/2005)の第4楽章「歓喜の歌」冒頭5〜6分を聴いてもらいながらの解説をよくおこなっています。これによって、フォーカサーが体験していることを比喩的にお伝えしているのです。「『ぴったりしない』→『ぴったりする』ってこういうことですよ」と。

YouTubeに『第九』の演奏が公式にアップロードされているので、これにリンクを付けて説明します。
Beethoven 9 - Chicago Symphony Orchestra - Riccardo Muti


「歓喜の歌」冒頭の構成

ご存知の方も多いと思いますが、第4楽章「歓喜の歌」冒頭の「数分間」は、「フルオーケストラが奏でる音楽」 と「低弦が奏でる応答」というパターンを何度か繰り返して音楽が進みます。私はこれを、聴き手による提案とフォーカサーによる応答、あるいは「私」と「私のフェルトセンス」との自己内対話になぞらえたいと思います。「オーケストラ」の音楽は、フェルトセンスに投げかけられるシンボルであり、「低弦」の応答は、腹の底から込み上げて来るフェルトセンスの応答です。


「歓喜の歌」冒頭を実況中継

以下では、“52:13”と表示されているところをクリックすると、実況を入れた音楽が各々流れるように設定してあります。

52:13 第4楽章の出だし、ティンパニの連打をともなって「オケ」が嵐のように劇的な音楽を奏でる。

52:25 するとすぐに「低弦」が「おお友よ、このような調べではなく(O Freunde, nicht diese Töne!)」(≒ぴったりしない)」の音(レチタティーヴォ)で打ち消すように鳴る。

52:43 「ダメ? いや、そんなことはない、これでいいはずでしょ、もう一度確かめてみてよ」とでも言うように、もう一度「オケ」による嵐の音楽が鳴り響く。

52:53 でもやっぱり「低弦」の応えは「ちがうちがう」

そこで、次に「オケ」は第9交響曲のこれまでのおさらいを始めます。

53:05 まず、「オケ」は、第1楽章出だしの天地創造を思わせる神秘的な音楽はどうでしょうと「提案」する。

53:20 でもやっぱり「低弦」の返事はきっぱり「違う違う、ぴったりしないんだ」。

53:47 続いて、「オケ」は、第2楽章の軽やかな音楽を提案。

53:53 ノリのよさにつられて、「低弦」からは、「あ、それいいかも」と前向きな返事が出はじめるけど、やっぱりしまいには「うーん、でも、どっかちがうみたいな…」と渋ってしまう。

54:11 じゃあ今度は、と「オケ」から第3楽章の安らぎの音楽が。

54:24「低弦」の応えは迷っているような宙ぶらりんな感じ。「いいようなよくないような・・・ウーン・・・」。そして、結局は打ち消す。

54:48 そこで最後に、じゃあこれなら?と全く新しいメロディーを「オケ」が出す。でも今までさんざん突っぱねられてるので、短めに、返事をうかがうようにそっと差し出す。

54:53 すると突然手のひらを返したように「低弦」が「そうそう、それ、それなんだよ。まさにぴったり」と相づちを打ってくる。

55:00 「低弦」と「オケ」がジグザグに、細かく合いの手を入れ合い、しばらくぴったり感を味わい続ける(共鳴)。

55:26 そして、ついに、今度は「低弦(フェルトセンス)」の方から「静かで小さな声(still small voice)」で、あの歓喜の歌が湧き出てくる。

56:12 いろんな楽器が少しずつ呼応し始める。ふくらんではしぼみ、ふくらんではしぼみながら、次第に大きなうねりとなってゆく。

57:44 ついに、フル「オケ」の大合奏で「歓喜の歌」が奏でられる。

とまあ、ベートーヴェンは、言葉ではなくて音を使った19世紀のナチュラル・フォーカサーだったのではないか?という話です。


追伸

このような音楽の進み方は、決して無秩序というわけではありませんが、事前に演繹的に推論できるわけでもありません。体験から音楽というシンボリックな表現への進み方については、ジェンドリンに影響を与えたヴィルヘルム・ディルタイの哲学を私は参考にしています。

音には音が続いていて、音はわれわれの音の体系の法則に従って次々と現われる。けれどもこの体系の内部では、無限の可能性が存している…。どこででも、自由な可能性がある。この制約には必然性は一切ない。…この旋律のなかで「そう ー でなければならないこと」は、必然性ではなくて、ある美的価値の実現なのである。そして特定の個所で、次の来るもの [音] が違っていることはありえないだろうということも考えられない。(ディルタイ, 2010, pp. 243–4; cf. Dilthey, 1927, p. 221)


  • 上記の動画は、シカゴ交響楽団の公式チャンネルがYouTubeにアップロードした、リッカルド・ムーティ指揮の『第九』の演奏です。

  • ジョン・エリオット・ガーディナーによる、いくつかのメロディーを拒否した後に適切なメロディーを見つけるプロセスの解説 (Gardiner, 2020) は参考になります。

  • 上記の文面は、日本フォーカシング協会メーリングリストへ18年前に投稿した記事 (田中秀男, 2002) をもとに、動画を加えて修正したものです。


参考文献

Beethoven, L. v. (1824/2005). Symphonie Nr. 9 d-moll, Op. 125 = Symphony no. 9 in D minor (edited by P. Hauschild; Partitur-Bibliothek, Nr. 5349). Breitkopf & Härtel.

Dilthey, W. (1927). Das Verstehen anderer Personen und ihrer Lebensäußerungen (Erleben, Ausdruck und Verstehen). In Der Aufbau der geschichtlichen Welt in den Geisteswissenschaften (Gesammelte Schriften, vol. 7, pp. 205-27). B.G.Teubner. ディルタイ; 長井和雄(訳) (2010). 他人と彼らの生の表出の理解 (体験、表現と理解). ディルタイ 世界観と歴史理論 (ディルタイ全集, 第4巻, pp. 225–51). 法政大学出版局.

Gardiner, J. E. (2020). Symphony No. 9: 'Up above the stars he must dwell', Retrieved from the official YouTube channel of Monteverdi Choir and Orchestras.

Gendlin, E. T. (1962/1997). Experiencing and the creation of meaning: a philosophical and psychological approach to the subjective (Paper ed.). Northwestern University Press.  ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 筒井健雄 [訳] (1998). 体験過程と意味の創造 ぶっく東京.

Gendlin, E.T. (1964). A theory of personality change. In P. Worchel & D. Byrne (eds.), Personality change (pp. 100-148). John Wiley & Sons. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 村瀬孝雄・池見陽 (訳) (1999). 人格変化の一理論. セラピープロセスの小さな一歩:フォーカシングからの人間理解 金剛出版 (pp. 165–231).

Gendlin, E. T. (1981). Focusing (Paper ed.). Bantam Books. ユージン・T・ジェンドリン [著] ; 村 山 正 治 ・都留春夫・村瀬孝雄 (訳) (1982). フォーカシング 福村出版.

田中秀男 (2002). [focusing-net: 3206] 19世紀のフォーカサー、その名はベートーベン. 日本フォーカシング協会メーリングリスト.

Tanaka, H. (2021, April). Tapping 'it' lightly and the short silence: applying the concept of 'direct reference' or ''creative regress' to the discussion of verbatim records of Focusing sessions (with the English language supervision of Akira Ikemi). Paper presented at Saying What We Mean: A Symposium on the Works of Eugene Gendlin.

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