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自分で自分に「お葬式」の説教をしたらこうなる。現役の坊さんパクってよいぞ。

仏教で言う三界とは、「欲界・色界・無色界」をいいます。


言ってみれば、「生けるものの心の本質」であるわけです。
そして、これを表したのが「六道」という概念です。
すなわち、「地獄」「畜生」「餓鬼」「修羅」「人間」「天界」
そっくりそのまま人の心の姿であるという考え方です。

死んだ人が「六道」から離れるという理屈は、
これで理解できましょう。

死んだら地獄に行くとか、天界に行くというのは
ある意味本質をとらえているものではありません。
六道輪廻は「生まれ変わり」を意味するものではなく。
様々な「縁」のダイナミックな動きで、心が自在に動いたり、
それが原因で、いろいろな結果を生んでいるのが、
この世界の真実であることを象徴しているということです。

この観点からいえば、
この世の縁を絶つ=人としての生命を終える。
そういう存在に対して、二度と同じ組成の「人間」が
今後生まれる可能性は皆無であるということです。
「その人の死を悼む」とはそういった「喪失感」があるからなのです。

ましてや、生まれるのも、心を作る他との関わりの確率を考えたら、
「同じ人格・同じ人」が今後生まれる確率は、
ゼロであることは自明だということです。

なくなった存在は、二度と同じものにはならない。
この事実こそが「尽十方界の真実」というものです。
簡単に言えば、「どうしようもないこと」

だから、自分の前から消えてしまった人とは、
今後一切の「縁」を持ちたくとも、
持てない存在になったことを痛感する事です。

そして、改めて人一人の縁とはどのようなものだったのだろう。
という事を、死者とでなく、遺族それぞれが、
互いに今後を痛感するに違いないことなのです。

だが、それも一元的な見方にしか過ぎません。
つまり、三界における自分以外のものは、
すべからく自分の心によって分別されている対象であるからです。

なぜなら、自分の存在すら
他との相対によって認識されている状態に過ぎないからです。

縁というのは「因」と「果」の集合体です。
原因を生み出す何かと、その末起こった「結果」
そういうものが、この世を動かしているのです。

心の中にはもっともきらめいたときの相手の存在しかない

だから、目の前からその人の存在がなくなったとしても、
「亡くなった」という「因」によって、新しい「果」が生まれ
それが新しい「縁」となるわけです。

その人との縁や、その人との関わりで認識できた自分の存在は、
自分というものがある限りは形を常に変え、
それが永遠に続いていくものなのだということです。

そして、自分自身も他人との縁や他人の認識によって
その存在が、「縁」として永劫に続いていくのだということです。

だから。生きている限り、人は「縁」を作り続けていくのです。
死んでしまった人も、その「死という因」によって、
残された人へ「果」という新しい「縁」を作ったことになります。

そして、やはり、原則、
人は「ひとり生まれ」「ひとり死にゆく」
そういうものだということです。

例外はないのです。


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