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 今まで何度も「般若心経」を写経したり読経したりして参りましたが、最近「まてよ?」と思うことがありましたので、感想程度に書いておきましょう。
    ですから、解釈論だのあ~たこ~だの内容ではないことを最初に申しておきます。

 さて、お経でも最もポピュラーな「般若心経」ですが。冒頭からいきなり「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」
 と切り出します。直訳すると観自在菩薩(観音菩薩)が真の智恵の本質を究めたとき。となります。そして

 「照見五溫皆空、度一切苦厄」

と、いきなり結論から入るんですね。
  すなわち、「この世の現象一切は空であることを見通したので、一切の苦しみや厄介ごとをコントロールできたのだ。」
 とぶち上げた後、「舎利子よ」・・・とその概要を述べていきます。まぁ、そういった構成になってるんですな。

 で、そこであたしがふと思ったことなのは、「観音菩薩」とは絶対的な存在なのか、あるいはおのれあってこそ生じる相対的な存在なのか。という点です。
 
 観世音菩薩も観自在菩薩も、漢訳が違うだけというわけで意味は同じと言われていますが、前者の鳩摩羅什と後者の玄奘の見解は、ひょっとしたらここにあるかもしれない。
 と、つまんない事を考えた結果なのです。

 ですが、この象徴的な存在を、相対とみるか絶対とみるかで、やはり大きな違いが生じると思うのですね。

 観世音は救済であり、観自在は心の解放を表すのではないか。まぁ、いずれにせよ結果としては同じでしょうが、その修法において若干の差が生まれてくるのかもしれません。 ただ、結果は同じなのですから、それに拘ることはありませんが、どうしても、ささくれみたいに引っかかるんですな。

 観音菩薩とは、法華経の一説である「観音経」に依った仏様です。すなわち、すべての試練や災厄において必ず現れて「災禍」を払い、心の平安をもたらす存在である。
 といいます。

 般若心経においての観音菩薩はすべてを「空」と照見して、一切の苦厄を「コントロール|した」存在である。としています。
 やはりここにおいても、若干の意味合いの違いが感じられます。

 この違いは、「般若経群」と「法華経群」の、大乗仏教における大きな潮流の違いなのかなと。ふと思いました。

 研究の考察とは、こういったちょっとした「違和感」から始まるのです。

 詳しい内容は、これからに譲りますが、あたしは「教科書なんか暗記するな」と主張する先生に教育を受けましたので、常日頃こういったクセが出るのでしょうな。

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