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何かのために「戦わなければならない」

修羅場とは

修羅場」という言葉は修羅の世界という意味です。
修羅とは六道の修羅界、この世界は
「戦いに明け暮れる世界」の事を指します。

 ところがこの「修羅道」は実は二つの解釈に別れています。
えてして、争いに明け暮れる「修羅」は悪い意味にとられ、
先に述べた畜生・餓鬼・地獄の三悪趣に加えて
四悪趣と言われることもあるし、
人の声など耳を貸さずただ、
争いに明け暮れるという悪いイメージで語られることも多いのです。

三毒の要素のひとつである瞋恚の象徴が
「修羅」であるとしている場合もあるくらいです。
たとえ正義であっても、それに固執し続けると
善心を見失い妄執の悪となる。
という意味からです。自衛も過ぎれば、攻撃になるという事なのでしょう。

だが、この修羅界の王、阿修羅は
仏法の守護神の一人として位置づけられていいます。

奈良興福寺にある秀麗な乾漆像である
「阿修羅像」は仏像のひとつとして認識されていますものね。

つまりは一方で修羅は
「阿修羅」の住む世界であるという解釈もされ、
阿修羅は「天界」の所属であるとする説です。

そもそも阿修羅が何故戦うのかという理由がふるっているんです。

阿修羅には舎脂という娘がいて、
帝釈天にいずれ嫁がせたいと考えていました。

ところがせっかちな帝釈天は、舎脂を誘拐し凌辱して
無理矢理自分の妻にしてしまったのです。

 待てばせっかく帝釈天に嫁がせるはずだったのに、
このやり方に怒った阿修羅は、
帝釈天に常に戦いを仕掛けるようになりました。
その戦場のことを「修羅場」というのです。

修羅道は「評価」が別れる

 常に戦うという観点から
天台の言う五趣と畜生の間にあるものとされるのですが、
六道輪廻の観点からは、三善趣の中に位置づけられています。

ここで「戦い」とは何かという
現実的な問にぶつかるのですね。

理不尽なことに対して戦うことは、
決して悪い事ではありません。

その戦いとはたとえば、
今回のような「災害」に対する戦いです。

極限の現場の作業には危険が伴うし、
およそ普段の人間としての感情だけでは
対応しきれないものもあるだろう事は想像にあまりあります。

しかし、なりふりも構うことは出来ない。
この状態の心がそれこそ「修羅」なのです。

戦いたくないが戦わなければならない

 畜生のような自分本位の争いではなく、
目の前の理不尽に対して、
如何に普段の「あたりまえ」の状態に戻すか
という目的のために戦いに明け暮れるのが
この状態なのだと思います。

ある意味悲痛で悲しいし、
逃げ出したのですけれど、
戦わなければならない状況があるから
戦わなければならない。

それが「修羅」であるわけです。

これは、戦争ではなく
「混乱」からの脱出のための作業であるともいえます。

これを乗り切ってはじめて心は
平常の「人間」になる事ができるからです。

修羅になって、必死に戦っている人は、
今、たくさんいます。
でも、修羅が三善趣の中に入り、
その戦いが畜生の争いと違うことが
はっきりしている事があります。

それは、他を蹴落とすという観点がないという事です。

つまり阿修羅は、戦いの悲しさつらさを、
すべて理不尽なものに対する怒りというものに、
還元しているからです。

そう考えると、
日常に戻すための作業に決死であたっている人は、
ある意味「修羅」になっているかも知れません。

しかし、その心はいわば戦わざるを得ない
悲しみで一杯なのでしょう。
出来ればこの戦いはない方がいいのだから。

興福寺の阿修羅像が秀悦なのは、
その表情がこの心を
見事に象徴しているからなのでしょうね。

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