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30代末期が哲学る。「さっさと風呂入って寝ろ」


20代・30代の頃は、
誰が作った何か・誰かが言った言葉
そういうものに影響を受けながら
時にはそれらを真似ながら
生きてきたと思う。

今は30代最後の年。
そんな30代末期を迎えた最近は
そこに変化を感じるようになった


40代は
自分の哲学をもち
それの試行と検証を繰り返していく

そんな気がしている

年齢に関係なく
時代の流れが
そうさせているだけかもしれないけれど

自分の哲学をもちたい
明文化を図りたいという気持ちが
強くなりつつある。


哲学とは何か?

そもそも哲学とは何か?


子どもたちには
「答えのない問い」だと伝えてきた。
人生論や生き方だと捉える人も多いと思う。


私は、最近、立ち読みした本で知った
ドイツの哲学者ヘーゲルの言葉がしっくりきた。


「哲学とは、自分の生きている時代を概念的に把握すること」

さらに、そこに付け加えたいのは
「我々は何者なのか?」という問い


だから私にとって哲学とは、

「自分の生きている時代を概念的に把握することで、我々は何者なのか?という問いに対して行われる思考」(長い….)

と定義した。


前提を覆す

自分の哲学をもつためには
あらゆる前提を覆して考える必要があった。


これまで当たり前だと思っていたものを
どれだけ手放して考えることができるか。


やってみて気がついたけど
前提を覆せば覆すほど
他者に理解してもらうことが非常に難しい。
なんなら嫌われる覚悟もいるかもしれない。


だけど、少しずつ試行と検証を重ねてみて
これって結構、自分の真意かも?
って思うことが増えてきたから
思い切ってそれを記事してみようと思った。



投票に行かないのはダメですか?

2022年7月10日行われた参議院選挙の投票に
私は行かなかった。

小難しい話は何もない。

ただそこに価値を感じず
思考を動かすだけの関心も芽生えなかったから。


そこから自然と導き出される結果が
「投票に行かない」ということ。


「行けなかった」のではなく、
「意図的に行かなかった」


最初は、誰にも言えなかった。


選挙活動をしている知人もいる。
投票に行ったことを報告し、歓喜する投稿が並ぶSNS


仮にも教員をしてきて
選挙や民主主義の大切さを伝えてきた。


投票に行かないことを
「一人の大人や社会の一員としての責任の放棄だ」
と非難する人と出会うのは決して難しくない。


だから最初は誰にも言えなかった。
言うつもりもなかった。

でも自分の感覚の中には
まったく悪いものを感じなかった。

「社会」というものに意識を向けない方が圧倒的に心地よい
という事実だけが残った。


他の人が作った常識や正義よりも
この感覚の方が、私には真実だった。

私は、人の性善説を信じている。
だけど、民主主義というシステムはもう信じていない。


自分の行動と意識が一致して

気持ちが落ちついてきた頃
投票に行かなかったことだけではなく
むしろ、選挙に価値がないと感じていることを
少しの人たちに話し始めた。


そしたらある人は、
「実は、僕も行かなかった…」とカミングアウト。
その人も教育者だったりした。

ある人は、
「ひでちゃん、こんな本あるよ」って
教えてくれた。

この本を読んではないけれど
目次だけで内容は伝わってきた。

私は今の選挙制度の価値低下を説明できるほど
理論武装をするつもりもない


そんな時間があるなら
私は好きなことをしていたい


今、感じていることは
私はもう投票には行かないかもしれない。
ということ。

民主主義が圧倒的な正義になれないこの時代には
その選択肢も同等に扱われてもいいのではないだろうか?



問題を作っているのは誰か

「この世界は問題が溢れている。」


それは本当なのだろうか?

教育現場で問題を叫び続けてきた身としては
過去の自分を否定することにもなるけれど
それでも良い。
そのほうがいい。

存在の定義から考えると
そこにあることを認めるコトやモノがなければ
存在することはできない。

そう考えるなら、問題は
それを問題だと認める人がいることで生まれている



逆を言えば
問題だと認める人がいなくなれば
その問題は存在しなくなる。



言葉がややこしくなってきた。



言いたいことは…

「これは問題だー!」っていう叫ぶ人たちが問題を作っている。
ということ。
そんな現象が山ほどないだろうか?


ワイドショー的な番組が全部無くなれば
日本の問題は確実に減るだろう。


どんな問題であっても
誰もそこに意識を向けなければ
その問題は存在することができない。


真の問題解決とは
そういうものじゃないだろうか。



これは自戒を込めて言葉にするけれど
「これが問題だー!」って
叫んでいる人に限って
外側ばかりを見て
自分を見てない。

他者と話してばかりで
自分と話していない。



過去の自分に
「そんなお前が問題だよ」って
言ってやりたい。


選挙に対しても
そう思った気がする。


この日本で
ピストルによって
政治家が殺された


怒りや悲しみを味わうことは容易だった。
きっとそっちの方が簡単だった。


だけど、私はあえて、
そこに目線を合わせないようにした。

たいしたことじゃない。
どうでもいいこと。

意図的にそっちを選んだ。



「これは大変だ!」
「日本はもう終わりだ!」
「こんなに簡単に人が殺されるなんて!」

という反応をする人には


うるさいわ。
黙って、さっさと風呂入って
ゆっくり寝ろ。

と言いたい。

平和は心身ともに平和な人でなければ作れない。


問題は、その事象ではなく
そこを取り巻く人間が作っている。


見れば見るほど
語れば語るほど
その問題の存在は大きくなる。


問題があると感じるなら
そこから意図的に視線をそらすこと。


それがこの時代に必要な解決策では
なかろうか?


人間の大好物は不自然

人の数より動物の数が多い自然の中で暮らしていると
人間の不自然さがより際立つようになった。


木々や花、虫たちは
だた生きているだけで
幸せであるように感じる。


人間も自然の一部だから
きっと漏れなく
ただ生きているだけで幸せなんだと思う。


そこを
あえて
あえて
あえて
不幸を選べてしまうのが人間だ。


幸福であることが自然であるならば
不幸であることは不自然だ。


その不自然なことができてしまうのは
人間だけ。

なぜ、わざわざあえて
不幸を選ぶのか?

その方が刺激的で退屈しなくて
上がれば下がり
下がれば上がる
ジェットコースターを楽しめるから。

その不幸を得るためにする努力は
この時代の人間の大好物だ。


何か行動を起こすこと
苦難を乗り越えることが
大好きな人間の
不自然な動作は
不自然な不幸という結果
をもたらす。

頑張って、
努力して
不幸になって
「よし、幸せを目指すぞ!」と
また頑張る。


大真面目に滑稽なことをする。


木々や花は
種から芽を出し
根を張り
葉を広げ
花を咲かせ
生きていく。


生まれた時から
幸せに生きるための力を持ってる。


人間は根を張ることも
花を咲かすこともできないけれど
その代わりが「感情」だったんじゃないだろうか?


感情は
「自分は今、幸せか?」の答え合わせができる
唯一の道具
だと思う。

投票に行かなかったのは
私の感情が不快だったから。

政治家が殺された出来事を見なかったのは
私の感情が不快だったから。

ひまわりが
太陽の方を向いて咲くのと
同じことをしただけ。

「そんなことをしていたら自分勝手な人間が増えるだけだ」
「争いが絶えなくなる。人はぶつかり合って、残酷になる」


そんな揶揄が予想できる。


伝わるだろうか。

この話、行き着く先は
「生命への畏敬」だ。


つまり、命あるもの対する信頼。
私たち人間は、そんなにひどい生物なのだろうか?

 
「そんなのは歴史が物語っている」と
言う人もいるだろう。

でも歴史が物語ったものは
人間が不自然な行為をした上で招いた不幸
でないだろうか。


愚者は経験に学び 賢者は歴史に学ぶ 

という言葉がある。

私からすると
同じことを繰り返したくないのであれば
歴史から学んではいけない。

人間の目が前に付いているのは
常に未来を作る存在だから。

今、この時
何をどう捉え
どう考えるか。

それがすべてだ。

生命への信頼は
人間への信頼になり
それは自分への信頼につながる。

なぜ、感情が心地よくあることを大切にしてはいけないのか?

太陽に向かって咲かなければ、ひまわりは枯れてしまう。

なぜ、人間だけが
自ら枯れる行為をしなければならないのか?


もっと生命を信頼しても良いのではないだろうか。


私が考える生命への信頼は
「生きてるだけで幸せ〜」
ってよだれ垂らして
ぼーっとして
何も望まない
何も叶えないような
無思考の禁欲状態になることじゃない。


人間は成長を望むことで
繁栄をしてきた。

欲しいものは
どんどん望めばいい。
図々しく幸せであればいい。

生命への信頼は
何を選んでも大丈夫。
うまくいくようにしかできていない。

という確信。



この時代の人間の幸福度は
生命への信頼度に比例するんじゃないのかな?



以上。
30代末期が哲学る。
でした。

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