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オンラインスクールそらとくらす「最高の教材」

気づけば、開校して
1ヶ月と半分。

あっという間に過ぎていき
子どもたちとzoomで顔を合わせることが
日常的になってきた。


子どもの応募は再開したけれど
コロナの沈静化もあって
入学希望者はいない


他のオンラインスクールでは
登校を再開した子達も増えてきたらしい。




<日々の様子>

そらとくらすに毎回参加する子たちは
6,7人くらい。


がっちり決まったカリキュラムはない。



子どもたちが考えた
虫クイズや元素記号クイズをやったり


作った動画やマジックを見せてくれたりと


毎回、何かと話題や活動は豊富。




毎回の活動記録をSlackに残している。

最初は、保護者の方がやってくれていて
今では、1人の女の子が毎回
書いてくれている。


要約力がすごい。



最近は、絵の授業ができるスタッフが増えたので
毎週金曜日は、絵を描く時間になった。



えんぴつやクレパスなど
簡単な画材でできる技法を学ぶ



30分だけの予定が
「もっとやりたい」ってなって
そのまま描き続ける。



絵に興味がない子もいるだろうけど
誰も退室しない。
チャットで会話をしてる。


そんなものあり。



10/29
今日はハロウィンらしい回になった。



スタッフが
難解なハロウィンクイズを用意してくれて
結構、盛り上がった。



いかに、
日本のハロウィンが
おかしなことになっているのかを学ぶ。



仮装の仮面をつけていたり
今日だけzoomの名前を「ドラ・キュラ」にしていたり
背景画像がハロウィンだったり



画面がいつもより
賑やかにだった。



そんな日々。


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<最高の教材>

少し前に、そらとくらすで
「Among us」という
オンラインゲームをやろうということになった。



オンラインに慣れている子どもたちは、
ゲームやアプリをダウンロードすることへの
抵抗感は小さい。



無料で遊べて
みんなで繋げるものなら
どんどんやってみようとする。



「Amoug us」は比較的
低年齢でも遊ぶことができるから
低学年でも高学年でもできるらしい。



やってみた初日
気づけば、それを1時間以上やっていた。



そらとくらすの開校時間は
1時間半。


その大半の時間を、
ゲームに使ったことになる。


スタッフや保護者、
そこにいた大人たち。

程度の違いはあれど
心がざわついた。


ゲーム上では繋がっているけれど
画面共有はできない。

zoomを繋ぎながら
それぞれのデバイスでゲームをする。



画面をオフにしてしまえば、
その子の表情すら見えない。




「これでいいのかな?」
思わず、私も感じた。


子どもたちとは、
時代やゲームに対する
価値観の違いもあるだろうけど
「全員が参加できていないこと」を懸念した。



でも次の瞬間、これは
「最高の教材になる」になるとも思った。



このまま続ければ、
きっと何かしらの課題が出てくる。


そういう時に、


そらとくらすをどんな場所にしたいか?

参加できない子がいた場合、どんな方法が良いか?



そんなことを
みんなで考えるきっかけになる。



心をざわつかせた大人が
「ゲームはやめよう」

と一言でも言ってしまえば、
そのプロセスは終わってしまい


子どもたちに残るのは
「自分たちでは決められない」という意識だけ。



そうではなく
子どもたち発信でやってみたいことをやってみて
そこから生まれた出来事を一緒に振り返る



それをサポートするのが
教育者の役割。


そして、その繰り返しの中で
民主的なコミュニティは作られていくんだと思う。



そのためにも、
「子どもたちが自分たちからやりたいことを提案できる文化」
を土台に据える。



きっとこれからも、
何かしら大人の心をざわつかせる出来事は
起こるかもしれないけれど


失敗や成功を繰り返すプロセスを
大人が待ってあげられる場所で
ありたいと思う。



結局、人と人との間で起こる出来事が
最高の教材


それはテキストや動画では
絶対に学べない。



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<未来をつくるため>

先ほどのゲームの取り扱いについて
スタッフが保護者に投げかけたことで
自然な対話が生まれた。


自分の考えや気持ちを
正直に伝えてくれた。



そのやり取りから
対話における私の好きなセンテンスを思い出した。


この本の一説。

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その北アメリカの部族はときどき寄り合いを持つことがあった。
彼らはただひたすら話すだけで、何の目的もなく話しているのは明らかだった。

そこではどんな決定もなされなかった。
その中にリーダーもいない。
そして誰もが参加できた。
他の者よりは話に耳を傾けてもらえる賢い男か女、年長者だろうがいたかもしれないが、誰が話してもよかった。

会合は長々と続き、やがてまったく何の理由もなしに終わって、集まりは解散する。

だが、そうした会合のあとでは、誰もが自分のなすべきことを知っているように見えた。
というのも、その部族の者たちは互いを充分によく理解したからである。

そのあと、彼らはより少人数で集まって、行動を起こしたり、物事を決めたりするのだった。


私にとって対話とは
妥協点を探す合意形成ではない。


それぞれが想いを語り
それぞれが行動を決める。


それは自分勝手とは違う。


対話の目的は
潜在的なつながり

一見バラバラに見える考えの中に
一貫性を見出すこと。



個人の考えは個人のものではなく
全ての考えは繋がっているということ。


その前提がなければ
対話は成り立たない。



普通に考えて
とてもめんどくさいものだと思う。


じゃあ、なぜ人は対話をしようと思うのか。


それは「未来をつくりたい」からだと思う。



自分の未来。
誰かとの未来。
その場所の未来。



未来を求めるのをやめた時、
人は話すことをやめてしまう。



それとくらすには
未来をつくりたいと思う人たちが
集まってくれて
本当にありがたいと思う。


そんな日々。


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