望月記者はカウアン・オカモトの側に立っている

BBCの告発により、立ち上がったカウアン・オカモトの訴えにより、ジャニー喜多川の性暴力が明るみに出された。

もはや、社会問題であるのに、いまだ、「性虐待」を受けたものに不用意に「あなたは性被害者ですか。」と質問するのは、配慮がないという間違えた情緒でしかない意見が日本には多い。

「性虐待」」された疑惑があるものへ「性被害者ですか。」と質問するのは、個人の痛みとしてそっとしておくべき問題である、と一知半解の意見がなぜ日本には多数派を獲得するのだろうか。

それは簡単なことである。

「性被害者」されたものへ「性被害」されたことが露見するのは、またもや日本的曖昧道徳である「恥」が覆いかぶさり、罪の告発を容易にさせなくしている。

だが、冷静に考えればわかるが、東山紀之へジャーナリストの望月記者が「性被害者ですか。」と質問するのは、事実を暴くうえでの基礎固めではないだろうか。さらに公開質問で行うのは間違いだという「いかにもわかっているかのような一知半解」がいるが、報道管制が敷かれているこの国・日本で、質問できるのは公開質問のときだけではないだろうか。バカなのだろうか。

「自称人権派」は。

これら自称人権派が被害者のカウアン・オカモトの抗議を無にしてしまっていることに自称人権派は生ぬるい道徳観でわれわれへご説教するのだ。

望月記者は、悪を黙認できないというシビアな倫理により東山紀之へ質問した。

その泥臭い行動こそが社会を変革するのである。

我々は見せかけの「人権」というワードに騙されてはいけない。

聖書のエゼキエル書にせよ、新約聖書にせよ、悪の容認は、容認したあなたも悪である、という教えである。

望月記者はジャニー喜多川の悪を徹底的に暴くし姿勢にたっている。その姿勢は「倫理」である。

その「倫理」が日本の幼稚な「世間知」で非難されてはいけない。

隠してはいたいその性被害も東山紀之が新社長という権力側へ移行した時点で「配慮される必要性」などいっさいない。

悪を暴け!


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