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大きな愛を求めて⑥

~エレノア・ルーズベルトの生涯~ シリーズ➊~➑


新しい世界秩序

▲ヤルタ会談

 1942年、アメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルという二人の指導者は、ヤルタにおいて、ナチスの計画を阻止し、自分たちのめざす世界秩序を構築するために、全力をつくすことを誓いあいました。自国はもちろん、世界の他の国々にも、人権と正義を守るために、国際連合を通じて、人間の思想・信条、自由、独立、宗教の自由が守られるべきことを宣言したのです。国際連合をつくるという世界秩序の構想は、このように人権尊重の理念をもとに築きあげられていったのです。

 戦争が終わり、世界が恐ろしいナチスの抑圧から解きはなされたとき、生き残った人々は、正義にもとづく世界平和を求め、世界レベルでの人権宣言が実現することを心から願っていました。

 しかし、1945年4月12日、アメリカにとっても、エレノアにとっても、大きな悲劇がおそいました。夫のフランクリン・デラノ・ルーズベルトが急死したのです。エレノアはもちろん、アメリカも、そして全世界もショックをうけ、何百万人という人々が、まるで自分の身内が亡くなったかのように、嘆き悲しみました。アメリカ国民はもはや戦争を続ける意志すら失いかけたのです。エレノアは、最愛のパートナーを失い、自分自身の人生も終わってしまったような気がしました。誰もが、彼女はもはや公的な活動から身を引くに違いないと思ったでしょう。

 しかし、フランクリンの死から8ヵ月後、トルーマン大統領はエレノア・ルーズベルトに、第一回国連総会にアメリカ代表として、ロンドンに行くよう依頼しました。エレノアは、いよいよ形づくられようとしている新しい国際機関、国際連合のなかに、フランクリンの遺志が生き続けることを願い旅立ちました。
 国際連合が、以前の国際連盟と大きく異なる点は、2つの超大国アメリカとソ連が加盟したことです。にもかかわらず、アメリカとソ連はにらみあい、「冷戦」という緊張と恐怖の核軍拡競争へと、世界を引きずりこんでいったのでした。

 1946年、エレノアが参加した第三委員会は、この緊張からくる考え方の違いから、はげしい論争の場になりました。特に、戦後の難民問題は、第三委員会でも取上げられましたが、交渉は難航し、国連総会にもちこまれました。ソビエトの代表は、アンドレイ・ビシンスキーという、とても気の強い人でした。経験豊かなアメリカ代表でさえ、彼との対決は望まず、エレノア・ルーズベルトが、彼との交渉相手に選ばれたのです。

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