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黒人奴隷の解放 ~エイブラハム・リンカンの決断~ シリーズ➊~➋

流血のカンザス
 

▲エイブラハム・リンカン

 アメリカ合衆国という国は、独立当初から、奴隷制度を維持することを条件に、合衆国に加わった州もありました。19世紀半ばのアメリカ合衆国では、黒人奴隷制度をめぐる南部と北部の対立が深まりました。南部の人口900万人のうち、白人は550万人、黒人は350万人です。南部では、奴隷制度の上に大農園が成立しており、南部の農業が急激に発達することができたのは、ひとえに奴隷制度のおかげでした。この制度を急に止めるとなると、南部一帯の産業は大打撃を受けることになります。それに北部の工業地帯に安い綿花を供給しているのも、南部なのです。

 しかし、開拓によって、領土が西部に拡大して新しい州が成立したとき、奴隷制度を認める「奴隷州」にするか、奴隷制度を認めない「自由州」にするかで対立が深まりました。1820年には妥協点として「ミズーリ協定」が成立します。これによって、当面、「自由州」と「奴隷州」がそれぞれ12ずつというバランスがとれ、従来の不明確であったその境界を北緯36度30分で明確に線引きしました。この妥協の成立により、議会における奴隷制拡大派と拡大反対派の対立は緩和されることとなったのです。

 1831年、ヴァージニア州で差別にたえかねた黒人たちが、ナット・ターナーという黒人説教者を首領にして、大きな暴動を起こしました。彼らは武器をうばって農場を占領し、白人を次々に斬殺しましたが、奴隷制度に対する明確な方針もなければ、黒人を含む世の中の情勢もまだそれ程熟していませんでしたから、暴動はそれ以上拡大することもなく、48時間以内に鎮圧されました。この騒ぎで命をおとした白人が60人もいたため、白人の仕返しはずいぶん激しく、ターナーをはじめとする、蜂起に関わったとされる容疑者、55名の黒人は処刑され、その後、そのほとんどが反乱には何の関係も無かったにもかかわらず、200名近い黒人が、怒り狂った白人の暴徒に殴られ、拷問を受け、殺されました。
 こんな血なまぐさい事件が起こったことに、南部の白人たちは驚きましたが、そのため黒人たちの待遇を改善しなければと考えるのではなく、逆にもっと厳重に黒人たちを取り締まらねばならないと考えたのです。あらたに法律が設けられて、黒人たちはピストルや小銃を持つことを禁じられ、また、白人の立ち会いなしに集会することも認められませんでした。さらに黒人たちに読み書きを教えることも法律で禁止され、黒人が農場の外に出る場合には、必ず主人の許可証を持たなければならないことになりました。こうして黒人奴隷は、この年からいっそう人間扱いされなくなってしまったのです。
 しかし一方では、黒人奴隷を、何とかして助けてやろうという奴隷解放運動や逃亡奴隷を手助けする「地下鉄道」のような組織による救出活動も展開されました。
 19世紀前半にアメリカ合衆国は領土の拡大を続け、メキシコの領土を侵略するようになりました。1846年5月には、アメリカ・メキシコ戦争(米墨戦争)がはじまりましたが、メキシコは、アメリカ軍の近代装備の前に敗北しました。その結果、1848年2月3日、両国は講和条約を結び、メキシコはカリフォルニアとニュー・メキシコの領土約240万㎢を、1500万ドルでアメリカに譲り渡し、両国の国境をリオ・グランデ川としたのです。
 新たに合衆国となった地域の奴隷問題については、1850年に、カリフォルニア州を「自由州」とするかわりに、テキサス州は州民の投票によって、どちらにするかを決めるということとなりました。しかも、それと引き換えに「逃亡奴隷法」を成立させたのです。これによれば、逃亡奴隷は、たとえ「自由州」に逃げても、捕えられ、もとの主人にもどすこと、逃亡奴隷をかくまった者は、罪に問われることなどが定められました。しかも、投票の結果、テキサスは「奴隷州」となってしまったのです。
 それで、次に決める時は、どうしても「自由州」にしなければならない、どんなことがあってもこれ以上「奴隷州」を増やしてはならない、というのが北部一帯の世論でした。


▲ミズーリ協定による線引き

 1954年、新しいカンザスとネブラスカを「自由州」にするか、「奴隷州」にするかという問題が全米の注目をあつめていました。しかし、30年ほど前に定められた「ミズーリ協定」によると、北緯36度30分より北の新しい州はすべて「自由州」とする、ということになっており、カンザス州もネブラスカ州も北緯36度30分より北にあります。ですから、この「ミズーリ協定」を踏みにじらないかぎり、当然、「自由州」でなければならないのです。しかし、南部の人々は、「逃亡奴隷法」だって「ミズーリ協定」にはなかったではないか、何も30年前の約束にしばられる必要はないといって、この二州を「自由州」にすることに反対しました。
 1846年には連邦上院議員に選出されて民主党に属していたいたスティーヴン・ダグラスは、つぎの選挙に民主党から大統領候補に立つために、南部・北部双方の支持を得なければなりませんでした。そこで、ダグラスは合衆国における各州自治の精神にしたがって、カンザスとネブラスカの二州が「自由州」となるか「奴隷州」となるかは、その二州の人民の投票によって決定させ、国会はこれに干渉しない、という案を提出したのです。
 彼にとっては、民主党から大統領候補として指名されることが目標であり、奴隷制度が拡大するか否かは問題ではありませんでした。それは、各州の人民がそれぞれ自己決定すべきであって、そのために合衆国が二つにわかれて争うことはない、というのが、彼の言いぶんでした。しかも、この案によれば、彼は北部の人々にむかっては、「あの二州の住民は大部分北部の系統の人々で、奴隷制度には反対だから、この案が通過して、人民の投票がおこなわれることになっても、二州はきみたちの希望するとおり、自由州になるだろう」といえますし、また、南部の人々にむかっては、「今のところ、あの二州の住民の多数は奴隷制度に反対しているが、南部からどしどし移住者を送って、人口の大多数を占めてしまうこともできる。そうすれば人民投票の結果、きみたちの望むとおり奴隷州にすることもできるではないか。」といって、両方の支持を得られるというわけです。
 奴隷制の採否はその領土またはその州の主権を有する人民が自由に決めることができるというダグラスの「合衆国領土における人民主権理論」という策略は、人々を説得し、ついに両院を通過し、1854年「カンザス・ネブラスカ法」として採用されることになりました。
この「カンザス・ネブラスカ法」は、かつての北部との妥協の産物である「ミズーリ協定」を実質的に否定するものでした。その頃ちょうど『アンクル・トムの小屋』が発表されて、北部では奴隷制への批判が強まっていたため、北部を中心に、この「カンザス・ネブラスカ法」に徹底的な抗議運動が起り、新たに共和党が結成されることとなり、両者の対立は次第に激しくなっていったのです。
 ダグラスの狡知にたけた「カンザス・ネブラスカ法」によって、現実には、ゆゆしき問題が起こります。カンザス州に北部と南部からそれぞれ武装した移住者が押し寄せ、各地で衝突が起き、「流血のカンザス」(Bloody Kansas)といわれる事態となり、1854年から1861年まで続いた政治的・暴力的衝突は、南北戦争の前兆となりました。

 「カンザス・ネブラスカ法」に反対する運動の中から、頭角を現してきた人物がいました。身長は193㎝。若い頃は、レスリングでレスラーとして賞金試合をしていました。
 この人物は1809年2月12日、アメリカ合衆国ケンタッキー州ホッジエンビルの丸木小屋で生まれました。彼の両親は無学な開拓農民であり、彼自身も一年程学校でわずかに基礎教育を受けた程度であり、以後ほとんど独学でした。父親は教育を受けたことがなく、読み書きができませんでした。農場の肉体的な仕事には真面目に取り組んでいましたが、賢く教養ある人間になることを願っていたリンカンに、肉体労働ばかりを要求する父親に、リンカンは強く反発しました。その上、幼くして弟や母を亡くし、雑貨屋に勤めたり、義勇軍の隊長として活躍したり、小さな郵便局の局長になったり、測量技師を勤めたりしています。恋人アン・ラトリッジが22歳の若さで突然亡くなると、翌年神経衰弱を患いました。それでも法律を独学で修め、弁護士となり、幾度も選挙に落選しながらも、州議会・連邦議会の議員となり、ついには、大統領となったのです。
 彼の名は、エイブラハム・リンカン、アメリカ第16代大統領です。アメリカの大統領の中でも特別尊敬される人物となることは、ご存じの通りです。

 1858年、共和党のリンカンと民主党のダグラスは、イリノイ州上院議員選挙を争うこととなりました。リンカンは、ダグラスと7回にわたり公開討論を行い、ダグラスが、白人と黒人の人種の融合に関する恐れを唱え、数多くの人々を共和党から離れさせることに成功していると訴えました。これに対し、ダグラスは特に民主党に対して、リンカンは、「アメリカ独立宣言」が白人と同様に黒人にも適用されると言っているので、奴隷制度廃止論者であることを際立たせようとしました。
 今やダグラスの政敵となったリンカンは、その演説で、ダグラスが奴隷制度を全国的なものにする陰謀に加担していると論じました。カンザスとネブラスカでの奴隷制度を禁じていたはずの「ミズーリ協定」を「カンザス・ネブラスカ法」によって終わらせたことは、その方向に進めようとする証左であるとしました。
ダグラスは当時の大統領である民主党フランクリン・ピアースと連携し、合衆国憲法には連邦議会が新たな州を奴隷州にするか、自治州にするかを決める権限は規定されていないことを論拠としました。確かに憲法にはそのような規定はなかったので、リンカンら奴隷制度拡大反対派は劣勢にたたされました。しかし、リンカンはダグラスに対して、決してひるむことなく、「建国時の指導者は明確な奴隷制廃止の意図を持っていたが、南部諸州との連合成立を優先させ、便宜的に南部では奴隷制を認めた。しかし、1787年には新たな領地に対しては、奴隷制は認めないという北西部条令も制定されており、将来にわたっては非人道的な黒人奴隷制度は廃止されるべきものである」と主張しました。
 だがしかし、ほぼ同時期に出された最高裁の「ドレッド=スコット判決」は、民主党やダグラスの主張と同じく、連邦議会が自由州と定めたことによって奴隷が解放されることは奴隷主の財産権を侵害することになるので憲法違反であると結論したのです。
この裁判は、かつてミズーリ州に住む奴隷だったドレッド・スコットが、所有主に従って奴隷制を禁止するイリノイ州および隣接の準州に移住して4年後ミズーリ州に戻ってきたのですが、彼は自由州,準州に居住したことで自由人の地位を得たと主張し、1848年、その確認を求める訴訟を起こしたのです。しかし、最高裁は次のような判断を下しました。(1)黒人奴隷であるスコットは合衆国憲法にいう国民には含まれず、連邦裁判所に提訴する権利がない。(2)彼の法的地位は居住するミズーリ州(奴隷州)の法律によって決まる。(3)北緯36°30′以北の準州において奴隷制を禁止した1820年の「ミズーリ協定」は、合衆国憲法第5修正条項に定めた〈適正な法の手続〉(デュー・プロセス・オブ・ロー)によらずに、その地に移転する奴隷所有者から財産権を奪うものであるから違憲である。
 つまりこれも「ミズーリ協定」は憲法の連邦議会の規定にない行為であり、違憲であるという判断だったのです。リンカンはこれらを奴隷制拡大主義者の陰謀であり、合衆国の統一を乱すことになるとして引き下がりませんでした。最高裁の「ドレッド=スコット判決」に、奴隷制反対派は憤激し、ジョン=ブラウンらによる武装蜂起が起こります。
すなわち、白人の黒人奴隷制廃止論者ジョン=ブラウンは、1859年10月、ヴァージニア州の連邦武器庫ハーパーズフェリーを襲撃。ブラウンは自分の息子3人を含む、白人と黒人あわせて22人からなる小人数で、この地を2日間にわたって占領します。自分たちの蜂起をきっかけに、全南部の奴隷がいっせいに蜂起することを期待していたのです。しかし、彼の2人の息子は戦死し、ブラウン自身も重傷を負って捕えられ、彼の蜂起は失敗に終わりました。北部の各地で大規模な追悼集会が開催され、ソローやエマソンなどの著名な知識人も心からブラウンの死を悼みました。そして1年数カ月後には、北部の農民や労働者たちは、「ジョン・ブラウンの遺骸は墓の下に朽ちるとも、彼の魂は進軍する」と歌いながら、大挙して奴隷制打倒の戦争に立ち上がっていくこととなるのです。

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