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黒人奴隷の解放 ~エイブラハム・リンカンの決断~ シリーズ➊~➋

寛大さと不抜の志を併せ持つ男・リンカン

 こうした状況の中、注目の上院議員選挙の結果は、民主党のダグラスの勝利におわりました。リンカンは、友人への手紙で、「わたしはあの論争をやったことを喜んでいる。わたしはわれわれの時代の大きな永続的な問題について、人々に自分の意見をきいてもらうことができた。そして、わたしはいま、人からみとめられないところに落ちこんで、いずれは忘れられてしまうだろうが、わたしのしたことは、死んでからずっと後になって、人民の自由のために効果をあらわすだろう。それだけの印は残したとわたしは信じている。」と述べています。選挙には敗れても、リンカンの人気は高まるばかりでした。
 そして、この両者の闘いは、これで終わった訳ではなく、何と共和党と民主党をそれぞれ代表し、第16代アメリカ大統領の座をかけて、闘うこととなったのです。リンカンは、人種問題の解決が重要であると考えていましたが、南北戦争以前には、黒人をアフリカへに移住させるべきだと主張していました。当時、アフリカへの黒人植民論は、合衆国の北部や西部で圧倒的な支持を得ていたからです。
 1860年11月の大統領選挙の結果は、民主党から南部民主党が分離して独自候補を立てたこともあり、奴隷制度拡大反対を掲げる共和党のリンカンの勝利となりました。そのため、南部諸州の反発は強まり、12月に連邦離脱を決定し、翌1861年1月、正式にリンカンが大統領に就任すると、それに対抗する形で南部諸州は「アメリカ連合国」を成立させ、ジェファソン・デヴィスを大統領に選出しました。
 リンカンは、南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となりました。南部諸州は、綿花輸出先のイギリスと、ナポレオン3世のフランスの支援を期待していたのです。
 
 1861年4月13日、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃して戦争が始まると、はじめは、リー将軍などの有能な指揮官がいた南軍が、兵士の士気も高く、射程距離の長い、イギリス製のエンフィールドという高性能のライフルと塹壕をもっていたため優勢でした。イギリス・フランスも南軍に肩入れし、北軍は押されていました。
 1862年9月、リンカンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷の解放を迫りました。さらに、翌1863年1月1日に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示したのです。これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に大義があるとして北軍支持に変わりました。
 1863年7月3日、ミード将軍の率いる北軍が、リー将軍の率いる南軍をゲチスバーグで打ち破り、続くシェナンドアの谷でも、北軍の集中砲火をあびた南軍が敗北し、大雨の中を南軍は退却していきました。ミシシッピ川に望む南軍の要塞が、グラント将軍によって撃破されると、ほぼ北軍の勝利は決定的となりました。しかし、南部の抵抗は長く続き、南部の首府リッチモンドが陥落し、リー将軍が降伏したのは、1年9カ月後でした。

 リンカンは、南部連合の指導者の大量処刑に反対し、捕虜を釈放するなど南軍の兵士にも情けをかけました。南軍が敗北したあと、捕虜収容所の所長が唯一、捕虜を虐待した罪で死刑になっただけで、南部連合の指導者は誰ひとり死刑にはなっていません。また、内戦後も復讐や分断が深まることに気をつかいました。彼の「慈悲深さ」と「寛大さ」が、かえって戦争を長引かせたと考える人もいます。
 16世紀に活躍したフランスのモラリスト・モンテーニュは、宗教戦争に代表される数々の戦争や残虐な行為は、人々の偏見や度量の狭さがもたらしたものだと批判し、独断的な思考に陥らないためにも、「寛容の精神」こそが必要であると説きました。
 
 しかし、長引く戦争に人々の心はくじけそうになりました。当時ロンドンの「モーニングスター」という新聞に、リンカンのことが次のように論評されました。「次々と示された強固な態度によって、リンカンはたとえ進むにあたって用心深すぎる点はあっても、いったん進んだら決して退かない。遅いが、しかし不抜の人物であることを、全世界に悟らせた。彼の政治的経歴の一歩一歩は正しい方向に進められてきたし、いつもたくましく踏み固められてきた。」
 この論評を書いた人物こそは、当時ロンドンにいたあの『資本論』の著者、カール・マルクスだったのです。マルクスは、ヨーロッパ系移民を積極的に受け入れるというアメリカの法律にひかれ、アメリカへの移住を真剣に考えていたそうです。
 1864年、リンカンは、大統領に再選されると、マルクスは、リンカンに再選を祝うメッセージを送ったことは有名です。南部では、リンカン暗殺の陰謀が企てられていたため、大統領就任式は、軍隊を総動員しての厳戒体制の下で行われました。そして、第2期目の就任演説を次のように結びました。
 「何人にも悪意を抱かず、すべての人に対して愛を持ち、神が私たちに示したその正義の確信によって、私たちが今取り組んでいる課題を成し遂げるため努力しようではありませんか。国の傷をいやし、戦争に従軍した人とその未亡人や子どもを助け、私たちの間とそしてすべての国の間に正しくそして永続する平和を達成し育むためにあらゆる努力を尽くそうではありませんか。」
 
 1865年4月4日、リンカンは、陥落したばかりのリッチモンドを訪問。南軍が退却時に町に火を放ったため、リッチモンドは2日間にわたる大火で廃墟と化していました。
 黒人たちがリンカンを見つけると駆け寄ってきました。その数はどんどん増えていき、彼らはリンカンの周りを取り囲み、手をつなぎながら讃美歌を大合唱しました。リンカンは、彼らに言いました。「みなさんは、もう自由です。奴隷という名を捨てて、踏みつけることができるのです。その呼び名が、あなたがたの上にかぶさることは、もうありません。自由は、あなた方の、生まれつきの権利なのです。あなたがたは、この恵みにふさわしいものになろうとしなければなりません。」
 
 1861年4月に始まり、65年4月まで4年間続いた南北戦争は、その間、大きな戦闘が約50回、小さな戦闘は無数にありました。両軍併せて61万8000人、北軍が36万人、南軍が25万8000人の戦死者をだしました。62万人に近い死者の数は、第一次世界大戦で約11万人、第二次世界大戦で約32万人の犠牲者だったのと比べても、あまりも多くの犠牲者であり、アメリカが経験した戦争の中でもずば抜けて大きな犠牲者だったのです。
 1865年に南北戦争が終結するまでに、約20万人にのぼるアフリカ系アメリカ人が連邦軍の戦闘に加わりました。同年12月、合衆国憲法は修正され、アメリカ合衆国のあらゆる地域に暮らすすべての奴隷が自由の身となったのです。合衆国憲法修正13条は、奴隷解放宣言が端緒となったその作業を完結させ、アメリカのすべての奴隷制度は終焉を迎えたのです。
 

▲戦場を訪れたリンカン

 アメリカの歴史の上で、もっとも大きな分裂の危機を孕んだ南北戦争を乗り切っていったリンカンは、激戦地・ゲチスバーグでの演説で、次のように述べています。「彼らがここで成した事を決して忘れ去ることはできません。ここで戦った人々が気高くもここまで勇敢に推し進めてきた未完の事業にここで捧げるべきは、むしろ生きているわれわれなのです。われわれの目の前に残された偉大な事業にここで身を捧げるべきは、むしろわれわれ自身なのです。それは、名誉ある戦死者たちが、最後の全力を尽くして身命を捧げた偉大な大義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれが一層の献身を決意することであり、これらの戦死者の死を決して無駄にしないために、この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することなのです。」
 最も短い言葉で民主主義の根本を語ったものとして特に有名な、「人民の、人民による、人民のための政治(the government of the people, by the people, for the people)」という名言は、今日でも不滅の光彩を放っています。
 既に述べた彼の経歴からして、どうみても「挫折のない人生」とは程遠い、むしろ挫折の連続といってもいいようなリンカンの人生だったのですが、その挫折と労苦の果てに、人間社会を見る眼を鍛え、奴隷解放を唱え、大統領としてすばらしい思想をもって、国民をリードしていったのです。
 挫折につぐ挫折の中から、リンカンの、正義のために戦う不屈の精神は生まれたといってもいいでしょう。「もし、木を切り倒すのに6時間与えられたら、私は最初の4時間を斧を研ぐのに費やすだろう」という名言は、リンカンの用意周到な人柄を端的に表しています。
 彼は、二期目の大統領就任演説で、「何人にも悪意を抱かず」と訴えましたが、南北戦争によって、アメリカが南と北で憎しみ合うことを恐れたリンカンの気持ちをよく表しています。

 当時、有名な俳優で南軍に共感するジョン・ウィルクス・ブースという男が、1865年4月14日にワシントンDCのフォード劇場で行われる演劇「我がアメリカのいとこ」をリンカンが観覧することを知りました。彼は一度リンカンの誘拐を計画しましたが実現できませんでした。
夕刻、演劇の開始時刻に遅れてきたリンカンは劇場舞台上のプライベート・ボックスに入り、楽し気に鑑賞していました。
10時15分、ブースはリンカンのいるボックスに滑り込み、44口径の単発デリンジャー銃をリンカンの後頭部に発射しました。頭を撃ちぬかれたリンカンは、翌朝4月15日午前7時22分、56歳でこの世を去ったのです。南北戦争に勝っても、彼の推し進める政策に反対の人々も多くいたのです。それほど奴隷解放などの政策は、人々の利益に深く関わる問題だったのです。
 

▲ワシントンのフォード劇場で

 後から考えれば、彼こそ一部の人々の利益よりも、人類普遍の原理ともいうべき自由と平等の正しさをこの世に指し示すために、その生命を与えられた人物であったといってもよいでしょう。アメリカのみならず、世界中の尊敬を集め、歴史上、不滅の光を放つリンカンの存在が、わたしたちに教えてくれるものは、挫折を恐れるな、挫折や失敗をバネにして、成長していく人生こそ最高の人生であるということではないでしょうか。自分が正しいと思うことのためなら、何度失敗しても、目的達成まで頑張ることができるのです。理想や信念を持ち、それを実現していく人生にとって、挫折や失敗は、むしろその人を強くしてゆくものだといえるでしょう。
 そして、その人の人生の価値は、一度も失敗しないで、どれだけ早く出世したかということなどではなく、何を追求し、何のために自分の生涯を捧げたかにあるといってもよいのではないでしょうか。挫折や失敗を恐れず、自分の目的のために飽くなきチャレンジを繰り返すことのできる人間へと成長したいものです。

▲リンカンのデスマスク

 大統領の死のニュースはすぐに伝わり、その日のうちに、アメリカ全土で半旗が掲揚され、企業や店舗は閉鎖され、南北戦争の終結に歓喜していた人々は衝撃と悲しみに見舞われたのです。4月18日、リンカンの遺体は国会議事堂に運ばれ、安置台に乗せられました。3日後、遺体は彼が大統領になる前に住んでいたイリノイ州のスプリングフィールドに列車で運ばれていきました。数万人のアメリカ人が鉄道の路線脇に並び、遺体を乗せた列車を見送って倒れた指導者に敬意を払ったといいます。 

 

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