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統一教会員の間違い⑤ 統一教会員は誰に祈っているのかわからない

かなりセンセーショナルな題名になっています。申し訳ありません。しかし、です。統一教会員の多くは「公的に祈りなさい」というのを勘違いして「自分の事を祈る」ことを忘れているのではないか、と思います。また、祈りが「お願い」ばかりになっているのではないか、とも思ってしまいます。文先生は「神様は親だ」と話されています。その、自分の親に「世界の事」だけを話す人がどこにいるでしょうか。また時間を決めて祈る人が多いのですが、親に話をするのに何分とか時間を決める人がどこにいるでしょうか。
そのことを踏まえて、文鮮明先生が「祈祷」をどのように説明しているのか、を紹介したいと思います。

牧会者の道
第二章 牧会者の役割
第一節 牧会者の祈祷
より抜粋

1 祈祷しなければならない理由

 人間が堕落しなかったなら、救い主も必要なく、宗教と祈祷も必要ありません。救い主が必要で、宗教と祈祷が必要になったのは、堕落の結果だということを知らなければなりません。(一九七四・三・九)

 祈祷をなぜしなければならないのですか? 縦的な心情圏に対して、自分が横的に九十角度の位置に立たなければなりません。これを誤ってはいけません。そこに立って、縦的な刺激を受けることにより、そしてその衝撃が大きければ大きいほど、その基準によって自分の球形が展開するのです。こうなれば、こんな球形になるのです。一〇〇パーセント授け受けする円形が展開するのです。

 ですから精誠をささげなければならないのです。これが行ったり来たりしてはいけません。そういう立場でびしっと祈祷するのです。「私がお父様にどのように侍りましたか? 私が父母に侍る場合、家庭的代表ですか、社会的代表ですか、氏族的代表ですか、民族的代表ですか、国家的代表ですか?」と言うのです。それは直ちに分かるのです。自分の涙が、どこまで流れ広がるのかということです。これが公式なのです。堕落した人間が天の父母に侍るのに涙がないなら悔い改めなければなりません。清算しないとその環境が再創造されません。失ってしまったから。何のことか分かりますか? (はい)。

 国を思うとき涙があふれ、世界を思うとき痛哭が起こりますか? 問題はそこにあるのです。天がそうしているのに、主体がそうしているのに、横的基準がその同位圏に立たないといけないでしょう。同参圏に立たないといけないでしょう。相続圏に立たないといけないでしょう。一体にならないと不可能なのです。(一七一―一九)

一日に御飯を食べる時間がどれぐらいになりますか? 一時間半はかかりますか? 一時間半、一時間半はかかるでしょう? (はい)。平均、一日に一時間半は御飯を食べて暮らしていますからね。霊的なそれは、御飯を食べる時間よりももっとたくさん投入しなければならないということです。もっとたくさん投入しなければならないというのです。それは先生が今まで経験してきた長年の信仰生活から分かったことです。(七〇―一七一)

 今日、私たちが行くべき道はどちらにせよ切り開くべき道であることを考えれば考えるほど、これは私たちの力だけでは不可能なことを感じるのです。ですから信仰者は祈祷しなければならないことを知るべきなのです。(一九七五・五・五)

 皆さんが一日生活するのに、最も重要で必要なこととは何でしょうか? 祈祷生活です。祈祷を通して見えない敵を知り、見える敵を選り分けなければならないのです。(一九―一四六)

 祈祷というのは目的の完成のためにも必要なのです。(九―一九七)

祈りとは、いつでもどこでも、空気を吸うように神様と会話し自らの行動を決定するために必要な事だ、と私は思います。

天聖経
罪と蕩減復帰
第一章 蕩減・復帰原理の根拠
二 人間に責任分担がある
1.責任分担を下さった理由
より抜粋

アダムとエバが、彼らが堕落する前に神様に先に尋ねていたならば堕落しなかったでしょう。「天使長がこれこれこうするのですが、どうしましょうか」と尋ねなければなりませんでした。そうしていたならば、神様が答えたはずです。この尋ねてみることが責任分担の五パーセントです。尋ねてみるのは自由です。しかし、尋ねないで横的関係を結んでしまったのです。それが問題です。尋ねないで行動したので問題が起こったのです。いつもそうです。皆さんは自分の責任分担の五パーセントを果たす自信がありますか。ないのにはしゃぐ雑多な鬼神たちが多いというのです。そのような精神をもって、いつ統一させますか。

祈祷は生活だ、と私は思います。再度祈祷の重要性を統一教会員の皆さんには理解して頂きたい、と私は思います。

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