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走ることは楽しい 楽しいから走る

箱根駅伝では青山学院大学が好記録で快勝し、正月から暗澹たる思いにかられている日本列島へ、一つ明るいニュースを届けてくれた。

さて昨年の頭、毎日新聞の小学生版の1面で持久走についてのインタビュー記事を載せて頂いた。

毎小ニュース『その持久走、時代遅れ?』

ここで一つ、自分のメルマガ読者の皆様は知っているかもしれないが、そうでない方々には色々と誤解されてそうなので、はっきりさせておきたいことがある。

例えば私は、ドッジボール遊びが子どもの頃から好きである。

基本的にサッカーやバスケなどのスポーツや競争、ゲームといった対戦型の勝負を好み、やるからには勝たないと気が済まないという性格であった。
(今は変わって、大分落ち着いている。)

そして、小学生の頃から断続的ではあるが、早朝ランニングを今でも続けている。
そのせいかこれまでの生涯を通して早寝早起きである。
一方で夜遅くまで起きているのは大の苦手で、ここ十数年は今年も含め、除夜の鐘をきいたためしがない。

昨年の正月には市の元旦マラソン大会(マラソンと名はついているが走行距離3kmのレジャー参加)にも出ている。
今年は勤務地の新春マラソン大会の応援にも進んで出かけた。

なぜそういうことをするかというと、私がそれを好きだからというだけである。
当然、他人が自分と同じである必要など全くない。
しかし、わざわざそれを嫌いにはなって欲しいと思わない。
よって、持久走の授業では常に「楽しく走る」をモットーに行う。

苦手分野の話もする。
書字が苦手な分、書の見事な人に対し、年齢を問わず心底敬服している。
賞状を筆で見事に書ける人には頭が上がらない。

一年生担任をさせてもらった時に書家の先生が筆で
「まつおひであきせんせい」
と書いてくれた新入生向け担任紹介のための長い紙を今も大事にとってある。

立派な習字作品や整った字を書く子どものノートを見ると、心からすごいと思い尊敬する。

では、『不親切教師のススメ』はじめ、各種記事との整合性がないかといえば、全くそんなことはない。

私が批判しているのは「みんなで」「一斉に」「揃えて」という点である。

ドッジボール、マラソン、ランニング、書き初め等、それそのものへの否定では決してない。

嫌がっている人たちに無理に競争させること、それによってそれらを憎み誤った方向へ導くことへの疑問を呈しているのである。

給食で苦手なものまで無理矢理食べさせない方がいいというのと同じ方向の理由である。

自分自身の大好きなもの、こと、人など。
そこに対し、誰かが強制的に嫌々ながら関わるとする。
例えば、自分が心から大好きなことや人、あるいは自分の大好物の○○。

これを無理矢理与えられた人が「嫌だ」とか「嫌い」とか「まずい」とか罵っている。

自分はそれをどう思うだろうか。

自分の好きなものをわざわざ嫌いになられて、何か嫌な気持ちになったり、傷ついたりしないだろうか。

それを、無理にでも嫌がる人に与えたいだろうか。
私自身がそれを好きならば、もうそれでいいのではないだろうか。
別にそれを好まない他人が無理に手にする必要はないのではないか。

動物は、見事な食物連鎖のバランスの中に生きており、自分の好まないものは絶対に口にしない。
モンシロチョウの幼虫は決まった葉しか食べないし、逆に羽化したら葉は食べないで蜜を吸う。
羊は生涯草を食み、肉は食わない。
全ての生き物同士は、食う食われるの必要な関係はあれど、わざわざ無用な争いをしない。

また、環境的にも自らが適応できる場所でのみ生きる。
他の生物の生きる場を侵略することもない。
つまり、好まない場で無理するのは、地球レベルで見ても不自然な姿である。
自らが好むものをするのが一番である。

ただ人間である以上、社会に生きる上で、強制されるべきこともある。
それは、安全など公共の福祉に関する義務やルールである。

日本で車を使って走行したいなら、世界スタンダードに合わせて道路の右側を走りたくても、左側を走ることを強制される。
ここは当たり前である。
選択肢なぞ一切ない。
強制されて素直に従うべきところである。
(世界スタンダードに合わせて法改正をしようとかいう話とは全く別である。)

一方で、運転したくない人、運転に自信のない人が無理矢理運転をする必要はない。
むしろ積極的に止めて欲しい。

同様に、走りたくない人が無理にマラソンを走る必要はない。
安全面から考えても、逆に危険である。
「新春市民マラソン大会」などは、走ることが好きな人、がんばりたいという人が集まって走るからこそ、あんなにも爽やかなのである。
好きでさえあれば「上手さ」や「速さ」「強さ」は二の次である。

全国の学校謎ルールは合理的とは言い難いものがかなりある。
それらは本当に一斉強制されるべきものなのか、見直しませんかというのが、『不親切教師のススメ』や各種記事における提案の内容の主旨である。

やりたくないことを嫌々無理してやったり競ったりしたところで、その成果などたかが知れている。
好きでやっている、楽しくてやりすぎて、むしろ周囲から休めと止められているような人間同士で競うことの方が、はるかに合理的である。

要するに、走ることも競い合うことも、楽しむ姿勢あってこそ。
自分が運動全般に対する良いイメージをもっているからこそ、多くの人に嫌いになって欲しくないというのが本音である。

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