見出し画像

ある愚かな芸術家の自画像ー早すぎる自伝ー#3

音楽という命を削って参加するもの

高校生のころから、音楽、特にクラシック音楽にのめり込んで、高校の合唱部が男性が足りなかったので、助っ人で合唱部に参加して、日本人作曲家の作品を知り、関西の合唱指導者として著名な、清原浩斗先生の合唱団にはいり、朝比奈隆のベートーヴェンの第九とか、ジュゼッペ・シノーポリ指揮、フィルハーモニア管弦楽団のマーラーの交響曲第八番『千人の交響曲』を歌ったり、アジア・ユース・オーケストラのベートーベン第九日本演奏旅行に参加したりしました。

それと並行して美術部にはいり、絵を描いたりしていました。高校3年生の時、進路を美術にしぼり、大学は関西で美術で私大のトップだった京都精華大学の新しくできた版画学科に入学しました。

大学と学問

 私は高校までの勉強はただ暗記して吐き出すだけの無意味なものだと思っています。私は、なぜ数学が、一つ一つの問題が人生にどんな意味合いがあるのか、教師は分かっていないし、教師は勉強していなくてもなれるくだらない人種だと思っています。学校の教師には教養がなかった。数学の問題を見て、抽象的な観念は、無味乾燥で、こんなこと何年もやっていると、まともな人間にはなれないなと思いました。抽象的な観念というものは人間の幻想的な意識領域に根ざしているからです。どこまでも腐ったものが膨らんでいく。

 私は、受験は、楽しかったです。苦労はしていません。自分の好きなことで受験に取り組めたので当時4番で受かりました。

私は大学で、私の読書に関係のある人と出会ったので、世間って狭いなと思いました。高校生から読んでいた吉本隆明さんとか童話の『くいしんぼうのアオムシくん』の作者だった柏原えつとむ先生などです。

大学時代は、1番困難なときでした。大学に入学して、程なく様々な学問を知ってから、今までの、高校までの勉強は学校にだまされていた、と感じました。

自分で自分を教育するとかんがえて自分でやりたい勉強をしたいと思い、美術史においては、セザンヌから造形思想、造型哲学みたいなものに代わってしまって、世界で、活躍する美術家は、みな、哲学や思想の影響を受けていることを知ってから、自分に合った思想を探しましたが、分からなかったです。

大学は、私には、居場所がなく、あまり親しい友達もできなかったので、先生達と頻繁に会って話していました。美学美術史の安藤邦洋先生や、フランス語学の稲浦嘉甫先生や、社会学の上野千鶴子先生、宗教思想史の笠原芳光先生など、京都大学と、同志社大学の、左派の先生達を中心にして、京都精華大学は、構成されていました。とくに、フランス語学は、苦手でした。稲浦先生は、星の王子様を最初に訳した、内藤濯さんの弟子筋の先生で、とくに親しかったのですが、在学中に亡くなられ、葬式にも出られなかったです。

恋愛と統合失調症について

私は、大学生のとき、ひとりの女性が、好きになりました。

その人は美人だったのですが、同じ合唱団で知りあい、夢中になって、毎回緊張して、まともな対応ができなくなったのです。その人は神経質で、人に対して上から目線でものを言って来る悪女でした。「もう、爆発した!」、「真面目すぎるのよ!」、「あなたにとってわたしって、なんなのよ!」、そのひと言、一言が心に刺さりました。

別れたあと、私は、絶望して、長い手紙を書いた後、大声で泣き、鬱状態になりました。

様々なストレスを抱え込んでいた時でした。大学では、作品を大量に誰かに盗まれ、私の父が、生きていたころ、脳梗塞を発症して、病院で私ひとりで、対応したりしたことなど、いちどに押し寄せてきて、私は、大変だった。

私は、その後、鬱が悪化して、幻聴が聞こえて来ました。友人の声が、何度も死ね、死ね、死ねと、窓の外から聞こえるようになって、私は、統合失調症になりました。

最初は、私は病識がなくて、霊能力が、身についたのかと思いました。悪霊みたいなものに悩まされました。

私は、鬱状態のころ、大学で、カウンセリングを受けました。カウンセラーは、吉川真理さんと言い、ユング派の心理学を学んでいたひとで、私の心を理解してくださり、話しが合いました。

私は、まるでモーツァルトみたいだと褒められました。それまでもいろんな人から、モーツァルトに似ていると言われました。しかし私は、母から一度も褒められたことがなかったため、自己肯定感が低くて、惨めでした。

鬱状態のときは、恐ろしいくらい眠くて、大学の、空いている教室で、床で寝たりしました。

そのカウンセラーに、聖杯伝説といわれたり、まるで、ウンベルト・エーコの薔薇の名前みたいだと言われました。吉川真理さんから、ユング派の精神科医の、山中康弘先生を紹介していただき、病院をたずねると、ドイツ語で統合失調症の始まりと、診断されました。

私は、狂っている、キチガイだと言われているみたいで、腹立たしい思いでした。私は、この日本社会の犠牲者です。心的外傷を繰り返し受けてきました。

資本主義の精神というのは、他人を犠牲にして、自己の安定を図る精神です。

私は病ということから抜け出せなくなりました。 


悟りのテクノロジー

悟りとは何か?

宗教とは何かというと、人間のダメなものが集合してできたものです。 

宗教の例えとして、旧約聖書から引用します。創世記のアダムとイブの息子、アベルとカインについて書きます。


ある日アベルとカインがヤハウェに捧げものをしました。カインは地の実りのよいところを、アベルはヘブライ語でムハラブ、つまり牛の腸の周りについている油かすを捧げたのです。

アベルはゴミを神に捧げたのです。ヤハウェはアベルの捧げものを大変喜びました。

どうしてだと思いますか?

残りの牛の肉をアダムとイブと分けて食べたからです。
カインはかみさまのためだけに捧げたのです。これにヤハウエは怒りをあらわにし、カインはアベルを殺してしまいました。カインは聖書の最初の殺人者で宗教はカインから始まります。殺人と宗教は同じ起源なのです。

この物語は世界の基準が置かれて以来隠されてきた事柄にあたり、私はそれを言い広めます。

アベルの捧げ物ムハラブは大変重要な言葉で反対から読むとアブラハムになります。

聖書の最初の重要な人の名前で、ムハラブはまほろばという日本語にもなります。

みなさん聖書をよむときはキリスト教解釈は避けてください。なぜならカイン、殺人者たちの世界だからです。

聖書はただしく読まないとキリスト教の妄信に巻き込まれます。


この物語は慈悲ということを行おうとしたアベルが、殺されるという悲劇の物語です。

アベルはヘブライ語ではかない、吐息のようなという意味で、精神性を表し、カインは獲得する、生産するという意味で物質文明を表しています。

キリスト教解釈では、アベルはステーキを捧げたから神に褒められたという愚か
な解釈をしていますが、キリスト教は商売をしているので、キリスト教の解釈はでたらめです。カインは長男ですが、イブが私は人を生産した(生み出した)と言ったのでこの名前が付きました。

 聖書には二種類の精神を表した文章が存在します。それは、ヒエラルギー精神とアンチ若しくはノンヒエラルギーの精神があります。

ヒエラルキー精神は聖書で商売している人たちの文章で、パウロ及びその信仰者つまりキリスト教です。イエスとは反対の精神のひとたちで、イエスを神としていますが、イエスの言葉を信じたことがありません。

イエスはホセア6:6の「わたしは憐れみは好むが神への犠牲(宗教)は好まない」というヤハウェの言葉を二度引用しています。イエスは宗教を否定しているのです。

宗教は人間として間違った道を教えています。禅仏教は悟ることに力点をおいて、自分は慈悲を全く行わない。大乗仏教が行ってきた価値は『寛容』であって『慈悲』を行っている人を見たことがない。この寛容という言葉には、人を見下す視線が含まれています。

 私が目覚めた頃、海外ではちょうど湾岸戦争が行われていて、何もできない自分がいました。戦争の悲惨さをテレビで見て、大きく絶望してしまいました。私は真面目過ぎるのかもしれませんが、涙を流した時、その絶望感によって目覚めたのです。
私は人として、誠実な道を歩んでいると思います。ヤハウェは神の道を真っ直ぐにしなさい、慈悲ある行いを行いなさいと言った。

私が悟ったからと言って宗教を作るのは間違いです。宗教は、今まで数多くの人を自分の欲望のために殺してきました。

覚醒に至るプロセスとして、毎日何かに夢中になることを見つけて、毎日同じことを規則正しく繰り返すことによって自己の世界は変わるということです。そして、他者との関係の彼方に本当の本当の神はいます。アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『サクリファイス』という作品にもこの言葉が出てきます。   

私は大学生の時、現象学という学問を見つけて、これは自分がやって来たことだと思ったのですが、現象学をやっている多くの人は、現象学の言っている『生きられる世界』リーベンス・ヴェルト(Lebens Welt)に到達していないのに本を出している人がいて、大学はダメだと思いました。そして、現象学にうんざりしてやめました。自分が大学の教師にならないとやっても意味のない世界でした。それに無神論的な世界でした。

 私は悟りましたが誰にも言わなかった。私はブッダのようにすぐれた人物ではないし、神格化されるのも迷惑でした。

人生は苦しいです。覚醒することである程度楽になると思います。しかし、私は輪廻転生は信じていません。

魂の不滅を唱えるのは簡単です。死んだ後も人間に生まれ変わるというのは、人間の欲望が生み出した考えです。

死を常に目前に捉えること。いつか来るものとして忘れるのではなく、死を認識することによって心の深い内面性に、底知れぬ巨大な生の深淵に到達することができます。

私は死んだ後のことは解らない、とします。天国も地獄も人間の想像した世界、他界観です。聖書は、死んだ後には無になるとしています。これは知恵のある言葉です。

悟りによって得たものは、心の平安でした。よく自分探しという言葉がありますが、確かに私も自分探しをしていた時期がありました。しかし私の半生は病気との闘いに費やしてしまったのです。

世界の果ては自分の心の内にあるものです。自分探しといって海外へ出かけても人生観が変わるぐらいで自己の内面の変革にはなりません。

自分の愚かさに気づくのも生を深める糸口です。生きることに意味はない。そう思って絶望して涙を流した日もありました。私は弱い人間ですから、私みたいな人間が悟りを開けたのも神様のおかげかも知れません。

思考と現代芸術

私は子供の頃から哲学的な思考を考える癖がありました。私はなぜ、オリンピック選手になるわけでもないのに体育の授業で走らされるのか?

英語も文学者になることを想定した、会話で使えない、文法教育。しかも和製英語で海外では通じない。発音教育もろくにしない。

数学もついていけなかった。人生のどの場面で使うのか明瞭ではない数学の公式。
私は抽象的な思考が苦手で、具体的な思考をするので、数学の幻想性に早くから気づいて、こんなことまともにしていたら人間性が狂うと避けていました。

やっぱり思っていた通り、大学での学問は全く違う世界でした。大学の学問の方が私に合っていました。

私の読書の世界も広がり、大学時代は、先に書いたようにセザンヌから造型思想、造型哲学みたいになってしまったので、哲学的な書物を読み、特にニーチェを中心に読みました。そのほかにも、フランスの現代思想に興味を持ち、

私が芸術家になる上でマルクスは避けられないと思いましたが、共産主義の暴力性には近づきたくなかったので避けていました。結局は、私も商品を作っているからです。

自分が描いているのは、女性にしろ、静物にしろ、写実画というのは、目騙し、錯視に基づいている、不誠実なものだからです。

それから、レオナルド・ダ・ヴィンチ(ヴィンチ村のレオナルド)の作った、遠近法空間の表現法は、レオナルドの幻想だから、今の時代には合わないからやめましょう、というのが現代美術なのです。

現代美術は特に平面性を強調します。アンディ・ウォーホルも、ロイ・リキテンシュタインも平面性を強く打ち出している。

意志の強さがないと、まねではこの二人の巨匠に対抗できません。 

それと現代美術は、ダダイズム、シュールレアリスムにしろ、反キリスト教、キリスト教批判の芸術運動です。日本のモダニズムの文学者たちはそれを知りませんでした。その意味で未だ現在性の芸術運動です。

なぜなら、現在、世界を支配している原理はキリスト教だからです。長崎、広島に原爆を落とす最終的な指示を出したのは、プロテスタントの牧師だそうです。『やれ、落とせ』と言ったそうです。

キリスト教がいかに悪魔的なのかが現れています。広島、長崎に原爆を落としたことによってアメリカは倫理を語る資格はありません。


本来的自己とは何か?

この言葉はユングから来ていますが、ユングは、古代の宗教、キリスト教グノーシス派の文章から取っています。

本来的自己とは、幼ごころの国、天国を表しています。人間が、子供の頃は持っていても成長と共に失う幼心のことです。

この幼心には慈悲心、憐れみの心が含まれています。

ユングは普遍的無意識を説きますが、彼の見た夢が構造的なところから着想を得たそうで、あまり科学的ではない恣意的なところから来ています。

聖書のエデンは幼心の国です。エデンには生命の木と善悪の知識の木があり、生命の木に至るには心を慈悲に向けなければならないです。

エデンの東にはケルビムと回転する炎の剣が備えられていますが、西は善良な方向性を表します。回転する炎の剣は、自分を切り刻んでくる無意識の嵐です。

サクリファイスー自己犠牲を通過しないとエデンは得られません。この嵐で神に試されます。下手をすると、狂ってしまい意思疎通ができなくなります。

天使ケルビムは神の獣性を表します。ケルベロスが犬で犬の姿をしています。

聖書の神話は、心の世界を表したもので、地方的な記述はされていません。
これは宗教から離れないと、経験できません。

さまざまな意見があるとは思いますが、私が理解している聖書はこう言う世界です。みなさんの感想を聞きたいので投稿お待ちしています。よろしくお願いします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?