槇原敬之の忘れられない曲

僕の車には、槇原敬之の曲がかかっていることが多い。

小さな頃から音痴でかつリズム感がなさ過ぎて音楽の時間が苦痛だった。僕がリズム感がないことは、小中の頃有名だった。その圧倒的なリズム感の無さは、中学校の運動会、音楽祭で指揮された。生徒会長だった僕は、運動会で1番先頭で歩くのだが右足、左足どちらがどのタイミングか全く分からなかった。強い拍で右とか言われても全くといって、どちらが強いか分からなかった。後ろを歩くのは、総務役員のため足はめちゃくちゃでも後ろのメンバーは、それに対して合わせないという暗黙の総務ルールでなんとかその場を凌ぐことになった。しかし、やはり、『あれ、会長足あってなくね?笑』と、生徒たちの間でまことしやかに、(いや、それがまことなんだけれど)囁かれていた。

また、音楽祭では、何故か会長が校歌の指揮をするという訳の分からない取り決めに(そんなのできる人にさせてよ。)苦しめられることになる。案の定、単なる4拍子を振るということに、大爆笑されて、散々恥をかいた。

これだけ音痴でリズム感がないのは、よくよく親に聞いてみると、両親どちらもカラオケに行くことがほとんどなく、曲を聞くという習慣もほとんどないという。これは、僕のせいではなく、遺伝もしくは家柄の問題なのでは、ということにしている。

前置きが、長くなった。

音楽を聞くということですら、あまり無いのであるが、唯一うたかーでかかっている曲はがある。それは、槇原敬之の曲である。

これは、大学1回生の春休みに東京までヒッチハイク旅をしていた頃の出来事である。

滋賀から愛知に向かって道路沿いに立っていたところ、たまたま通りかかった40歳くらいのおじさんが乗せてくれた。

色々と乗せてくれた経緯を聞くと、40歳で来月から柔道整体師の専門学校に行くことが決まっていて、たまたま有給消化中に通りかかって、乗せてくれたというのだ。

『40歳にして、新たな道に進まれるのチャレンジですね!凄いです!』

みたいな話をしたのだが、本人としては高齢の母が居て、今の職業を続けながらも介護をするのは今後難しいため、そうせざるを得ない選択肢であるというのだ。ポジティブなチャレンジではなく、もう後がなく、これしか無いというチャレンジだというのである。

その内容に対して、僕はおじさんの話した内容が言葉で理解できて、『分かる』気持ちになるのだけれど、まだおじさんの半分しか生きていない僕が『分かる』なんて、そんなこと言えないです。でも、分かりたいという、もどかしさがあります。というような、内容を話した。

少ししんみりした、雰囲気の中でずっと槇原敬之の『どんなときも』が流れていた。

会話が途切れて、曲の歌詞やメロディがまたその場に合って色々と思い起こされるような内容だった。

おじさんは、専門学校に行く前にキミみたいな学生に、出会えて本当に良かった。友達になってくれないかと言ってくれた。そして、昔よく行っていたという名古屋の鍋焼きうどん屋に連れていってくれた。

名古屋駅でのお別れのときには、名残惜しそうに少し涙を浮かべていたようにも見えた。

乗せて頂いた方にできることなんて、たかが知れているだろけれど、僕は精一杯できることをやり切った。

ふと、持っていた手提げ袋を見てみると槇原敬之のCDがいつの間にか入っていた。

たまたまなのか、おじさんが入れてくれたのか分からないけれど、ずっと大事にしようと思った。


後で知ったことであるが、そのおじさんは、自身が専門学生中にも心筋梗塞で倒れるもなんとか生き延びて、資格もとり、柔道整体師として働かれているそうだ。

私は、そのときは未だ知るよしも無かったが、3年後、母がガンになり、そうせざるを得ない選択の上でのチャレンジをすることとなる。

年が経てば、言葉の意味や深さがまた違って捉えられるのだと感じる。

そんなことを思いながら、槇原敬之の『どんなときも』を聞いている。



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