見出し画像

12/6|変化する「わたし」を大切にしたいから、「本当のわたし」でいられる「わたしの居場所」を作っておきたい。

思考的・現実的な人たちの中にいても、スピリチュアルな人たちの中にいても、人の温かみを感じるし、みんなのことが大好きだと思う。
だけど、心のどこかで窮屈さを感じてた。
自分の一部しか表現できなくて、なんだか窮屈だった。

目の前にいる相手・環境に合わせて、姿を変えることができる。
そんな「わたし」のことも大好きだから、まるっと受ける。
どの私も、全部「わたし」だった。


人に合わせて形が変化する「わたし」も大好きで、大切にしたい。
だからこそ、「本当のわたし」を表現する場所を作っておきたいし、「本当のわたし」でいることのできる「わたしの居場所」を作っておきたい。

思考的・現実的な人の中では、感覚的な自分を隠して窮屈さを感じてる。

思考的・現実的な人たちの中にいる時、私は感覚的な自分を隠そうとしてることが多い。
前に出て発言をする…というよりも、聞き役でいることが多いんだと思う。

それはそれで楽しいし、『こういうことを考えてるんだな~』と思って、話を聴いてることも多い。
『自分とは価値観が違うな~』と思うこともあるけど、共感できることもあるし…、なにより、価値観がどうとか関係なく、ちゃんと人としてまっすぐに向き合ってくれる人たちのことは大好きだったりする。

そして、彼らもわたしのことを理解しようとしてくれるから、少しづつ感覚的な話をできるようになってきてたりもする。

…なんだけど、私はまだ『わたしらしさ全開♪』と思えるほど、自分の感覚を自由に表現できてないんだと思う。
スピリチュアルな話が大好きな人とか、細かい説明をしなくても簡単な言葉でわかってくれる人たちと話してると、『すごく楽だな~』と感じる瞬間がある。
自分の感覚だけをポンポン話せるのが、すごく楽なんだと思う。

それは、思考的・現実的な人たちに対して話すこととができない…というよりも、そのことを知らない人たちと話すときには、先に説明が必要になるから。
ちゃんと理解しようとしてくれるのも嬉しいし、聴いてくれる人への説明はぜんぜん嫌な感じがしない。
ただ、私が話したいのはその「説明」ではなくて、その先にある「体験・感情」だから、ちょっと時間がかかるってだけ。

中途半端にスピリチュアルな知識を持っていたり、自分と感覚の違うスピリチュアルな人との会話で生まれる感覚の違い・誤解を思うと…、思考的・現実的な人たちがちゃんと向き合ってくれることの方が、すごく嬉しいと思うこともある。

…なんだけどやっぱり、
私はスピリチュアルな人…というか、私が感覚的に話すことを受け入れてくれたり、楽しんでくれる人たちと話す方が、すごく自由で、開放的だな~って思ってる。

スピリチュアルな人の中では、一部しか理解されない窮屈さを感じ。自分以外の何者かになろうとしてた。

ここ最近、スピリチュアル・感覚的な人たちと話すことが増えた。
スピリチュアルとか感覚的と言っても、どの部分を信じるかも、価値観もエネルギーも人によって全く違っていて…、『自分と完全に同じ』と思うほどの相手は…ほとんどいない。
『すごく似てる』と思うほどの人がいても、一緒にい続けることができるとも限らない。

『「誰の前でも同じ自分」じゃないんだな~』って感じることが増えた。
一見同じに見えるようなスピリチュアル・感覚的な話をしていても、目の前にいる相手によって、話す内容は全く違う。
スピリチュアルと現実のバランスも、思考と感覚のバランスも、エネルギーの質も…、いろんなものが違っていて。
「わたし」でいるはずなのに、無意識に「相手」に合わせてる自分に気づく。

そして、『この人とは、この話』と決めてる以外のスピリチュアルな話をしてると、違和感を感じることが増えた。
そして、相手の世界観に入り込み過ぎないように、「自分」に軸を置き続けようとしてる自分に気づいた。


スピリチュアル・感覚的な話をしていて、『楽しい』と思ってくれる人も、わたしの話に興味を持ってくれる人たちもいる。
だけど私は、ちゃんと「わたし」を理解してもらえていなくて、苦しいんだと思う。
自分の一部だけが「わたし」と思われていて、わかりやすい体験だけがわたしの「特別な力」のように扱われてしまう。

…いつのまにか、わたしの中に『認められたい』『わかってほしい』みたいな気持ちが生まれてたんだと思う。
そして、「スピリチュアル・感覚的な力」を『もっとわかりやすい形・言葉に…』と思ってる自分がいた。

それはきっと、私であって、わたしじゃなかった。

人と話してる時、何かを感じたり、見えたりすることがある。
不思議なこともいろいろ起こるし、メッセージを受け取ることもある。
いろんな流れが見えて、いろんなものをキャッチする。
欲しいものが周囲にどんどん集まってきたりもする。
…「夢で見たい離島・人を探して石垣に来て、実際に離島も人も見つけることができた」みたいな話は、興味は面白がってくれる人も多い。

…なんだけどさ、それは、わたしの一部であって、すべてじゃない。
わたしはもっとごく普通に現実を生きていて。
だけど、時より…、気づくとそういう不思議なことになってる。

偶然出会った人に「話すこと」や「ヒーリング」をしたりもするけど…、そういう形を使わなくても、人のことを感じて考えて、いろんなイメージを見て…、ごく普通に、自然にいろんなことをやってる。
相手が気づくかなんて関係なく、自分が気づくかも関係なく。

なのにいつのまにか、スピリチュアル・感覚的な人になろうとしてた。
誰かに認められたくて、偽りの自分を演じてた。

本当はもっと、等身大の自分でいたいのに。

いろんな私を受け入れる。どの私もわたし。

わたしはきっと、スピリチュアルな人よりも、感覚を大切にしてる人が好きなんだと思う。居心地がいいんだと思う。

そして、少し繊細な人、エンパス気質な人達といたほうが、力が抜けるような気がする。

だけど、相手の感覚を尊重するあまり、相手の感覚に合わせすぎてしまう自分もいる。
繊細な人・エンパスさんを侵食しすぎないかが不安になって、自分を抑えてしまったりもする。


…誰といるかによって、ぜんぜん違う顔をしてる自分がいる。
だけど本当に力が抜けて、何もまとってない素の自分が出てくる瞬間って、すごく少ないんだなって思った。

『こっちの方が、わたしらしい』と思った環境でさえ、時間がたった時に、『あ、違ったんだ…』って気づく。

本当にわたしって、どれだろう?
いや、ぜんぶ偽物じゃなくて私なんだけど…、誰にも影響されてない、本来の「わたし」ってどれだろう?って。

楽しく自分の話をしてる時の、自分のエネルギーに人を巻き込んでいくような感覚があるのが、本当のわたしだろうか?

それとも、
いろんな人のエネルギーを受け取って、いろんな顔を見せる。
人を受け入れたり、人に合わせるのが得意な私が、本当のわたしだろうか?

自分の中でずっと、『わたしの本質って、どっちなんだろうな?』って思ってる。


…だけどなんか、どちらの私も、わたしの本質なんじゃないかなって思ってたりもする。

共感力が高くて、周囲のエネルギーを感じすぎてしまう。
だから、それを感知して受け入れたり、周囲のエネルギーが心地いから安心していられるのもわたしだし。
のんびりまったりしたいのも、わたし。

自分の内側にたくさんのモノがあって、それを表現したいと思うのもわたし。

人との時間を大切に思うのも、自分一人の時間がすごく大切なのもわたしだし。

あんまり動きたくなくて、安定志向なのもわたしだけど…、『これだ』って思うと急に走り出してしまうのもわたし。

…あぁ、これって、『わたしは、エンパスと逆エンパス、どっちなんだろう?』と思ってるのと一緒だなって。
魂の形・エネルギーの向きみたいなものを考えると…、それがハッキリ見れてるわけじゃないから、わからない。
だけど、どちらの質も持ってるんだろうなって。
今、どちらを使おうとしてるかだよなって。

だけど、ゆいいつ、自分と同じエネルギーを持つ人の前では、「本当のわたし」を見つけた気がした。

エネルギーが似ていて、受け入れてもらえるのを感じたから『自分を表現したい』と思えたのか。
それとも、自分と似たエネルギーで自分が満たされたから、『表現したい』と思えたのか。

どっちであったとしても、おんなじなんだなって。
彼は自分と似たエネルギーを持っていて。
彼が近くにいたり、彼のエネルギーを感じてると、わたしは『表現したい』と思う。

『エネルギーを奪う・奪われる』みたいなのは誰かの価値観で、誰かの見た世界観で…、それが真実か否かはわからない。それが真実…ではない事象もあるのかもしれない。

あの時彼は、何を感じていたんだろう。どんな感覚・感情だったんだろう。

わたしはすごく元気になれて、楽しくて…。
だけど、一緒ににいることで彼を疲れさせてないだろうか?彼のエネルギーを奪ってないだろうか?
…そんな心配じゃなくて、ちゃんと聴けばよかったんだなって。
彼が何を感じているのかを。
そして、ちゃんと信じればよかった。自分の不安の声でかき消さずに。


いろんな人と出会う中で、関わっていく中で、『これが本当のわたしなのかもしれない』と思う瞬間はあった。
今までいた環境・関係性で抑え込んでいた、自分の側面を出せると、そんな風に感じてしまうことは多いかもしれない。

…だけど、時間たつにつれて、それが「相手に合わせた自分」「相手の影響を受けた自分」であって、「本来の自分」ではなかったことに気づく。
相手と自分がどうかできないのを感じて、「わたし」を取り戻すために、距離をとる。「わたし」に戻る。

だけど唯一、彼といる時だけは、「わたし」の戻っていくことができた。

変化する「わたし」がいるからこそ、「本当のわたし」でいられる「わたしの居場所」を作っておきたい。

だけどさ、彼の前でだけ、「本当のわたし」に戻ることができる…っていうのは、なんか違うなって思うの。

…そもそも、いろんな人の前で、いろんな人のエネルギーを感じて相手にあわせることのできる自分を、わたしは好きだったりする。

セラピストをしてた頃も、わたしのアロマはちょっと変わった香りをしててね。
全部、同じような薄い香りになっていくの。
お客様が来ると、必要なお客様の前でだけ、その瞬間のその人にあった香りになる。

普通に香りを楽しめない悲しさもあったけど…、わたしは、そのアロマが大好きだった。
「自分」を主張せずに、全力で相手のサポートにまわるのってスゴイと思ったし、わたしのやりたいこと一緒だったから。
一緒にお客様を癒そうとしてくれる「仲間」だった。

だけどさ、何も言わずに続けていたら、自然になじみすぎてしまって、気づいてもらえなかったりする。
それが、このアロマの香りなんだと思われてしまう。

…それがわたしなんだと思われてしまう。
だけど、それはその人のエネルギーに触れて、触れるための私であって、「わたし」じゃない。
だから、ちゃんと伝えなきゃ・発信しなきゃって思った。

人には、女性性と男性性がある。
エネルギーを発する力も、受容する力もある。
なのに、エンパスと逆エンパスはどうして、どちらかにわかれるの??
魂はどうして、器型か泉型なの?エネルギーを発信してるか受信してるかなの??

…もともと発信型の魂だったのに、いろんな経験の中で発信しないように制限をかけて受信型を意識した…という自覚はある。
セラピストとして活動していく中で、お客様に触れていく中で、受信することに特化していこうとした…気もする。

…あ、なんか自分の中でぐるぐる考えすぎちゃってるし、話が脱線してるね…。


あのね、
彼の前でだけ「本当のわたし」に戻ることができるっていうのは、なんか違うと思ってる。
わたしは、「本当のわたし」で生きていける「わたしの居場所」を作りたいの。

だから、自分の感覚を表現して、「本当のわたし」を受け入れてもらえる状態で、たくさんの人と会えるようにしていきたい。

…と同時に、人と会って話すとき、「本当のわたし」で話すことが全てではなくてね…。
相手に合わせて姿を変える私も「わたし」だから、大切にしたいの。

だからね、相手に合わせて姿を変えてしまう私をちゃんと「わたし」にするために…、それさえも「本当のわたし」にして、「わたしの居場所」にしていくために…。
ちゃんと表現していきたいなって思う。


本当はね、『表現したい』って思いながら、大切なことをちゃんと表現できなくて。なかなか進むことのできない自分が、嫌だった。
『口ばっかじゃん』って思ったり、誰かに認めてもらえるような形ができなくて焦ったりもしてたの。

なんだけどさ、
わたしは「本当のわたし」で表現して、「本当のわたし」が生きていける「わたしの居場所」を作っていきたいと思ってる。
だから、「本当のわたし」ではないものに気づいて、「本当のわたし」の純度を高めていきたかったんだなって思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?