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12/7|形のない「わたし」で表現していく。言葉で説明…はなく、体現していこう。

「年末の大掃除」ということで、書きかけのままになっていた記事を、急いで公開してる。
1月からは、新しい自分で表現したいから。

この記事も、書きかけのままになっていた記事の1つ。


※※

自分の書く文章を「読みたい」と言ってくれた人にnoteを教えることができなかったのは、本当の自分を見られるのが恐かったから。

『形のない「ただのわたし」を受け入れてもらえないかも…』と思いこんで、「わたし」を貫けなくなることを恐れてた。
…だけど本当は、もっと強いんだよなって。

「何をやってるの?」「何をやっていきたいの?」と聞かれても、うまく説明できないし、理解してもらえないことも多かった。
だから今度は、言葉で説明するのではなく、自分で体現していきたいなって思う。

今日は、そんなnote。

理由をつけてnoteを教えなかった私は、本当の自分を見られるのが恐かったのかも。

「文章を書いてる」と言ったら、「どこで読めるの?」と聞かれた。「読みたい」と言ってくれた。

なんでだろう。
なんとなくだけど、『この人は、本当に読んでくれるんだろうな~』と思った。

だけど、教えることをためらってる自分がいた。
「読まれるのが恥ずかしい」とごまかしたけど…、本当は恥ずかしくなんてなかった。

本当は、今の自分を見られるのが嫌だったんだと思う。

この1年間いろんなことがあって…、noteにはたくさんの自分がいる。
正直、『なんであんなこと書いたんだろう?』と思うようなはずがしい文章もあるんじゃないかなと思う。
だけど、それを読まれたところで、恥ずかしいも何もないような気がしてる。
…なんというか、そんなわたしさえも受け入れてくれるくらいの、心の余裕がちゃんとある人なんだと信頼してるのかもしれない。
…いや、そもそも、わたしは、あの頃の自分のことを恥じてないんだと思う。
だから別に、読まれても問題ないと思う。
(まぁ、本人のことを書いた可能性のある部分は、先にチェックしたい気もするけど…)


わたしはやっぱり、「今の自分」を見られるのが嫌だったんだと思う。

「書くことをしてる」と言っても、まだそれで食べていけるほどのモノではなく…、自分の言葉を認めてくれる人がいても、自分自身が自分の書いてるもの・書こうとしてるものを認めることができずに、さまよってるから。
そんな自分を見られるのが、嫌だったんだと思う。

他者の求めてるものを、ちゃんと書いていくことができるのかが不安だったりもする。
そもそも、求められてるものと、自分の書きたいものが少し違っていて…、その間で、どう表現していくかを考えていて、なかなか進めない自分がいる。

目の前で起こることに翻弄されながら、『あれかもしれない』『これかもしれない』と自分軸から離れてブレブレになってしまう自分がいる。

思考的な人たち中にいて、ちゃんと認めてもらえないのが悔しくて、必死に形を作ろうとしがみついてしまう自分。
スピリチュアルな人たちに認めてもらえてうれしいのと同時に、周囲の期待が大きすぎて、自分を大きく見せようとして苦しくなってしまう自分。
感覚的な人たちといるのを心地よいと感じてたはずなのに、いつのまにか、他者の感覚に合わせすぎて、バランスを崩してしまった自分。
『人に影響されたくない』『忘れよう』と、『何も感じなくなった』と安どしていたのに…、けっきょく、たった一人の人に影響を受け続けてる自分。…そんな自分の感覚さえも、表現のために残しておきたかった自分。

たった1つ、恋愛について書こうとするだけでも、そこにはたくさんの自分がいて…、現実的に考えたら手放すべきことでも手放せなかった自分がいて…。書くために、それを『必要』と感じてる自分がいて…。
そんなめちゃくちゃでグルグルした姿を、見られるのが嫌だったのかもしれない。

…いや、そもそも、心の中で思ってることのほとんどを、言葉にしないわけで。自分の趣味・好きなことの話もあまりしなかったわけで…。
『自分のことを知ってほしい』『ちゃんと見てほしい』と思ったりするくせに、自分の内側を見せてなかったんだなって思った。

きっと、他者に見せてる私は、わたしのほんの一部でしかなくて。
もしかしたら私は、目の前にいる人に「わたし」を知られることが恐いのかもしれない。


誰かの前にいる時の私でも、適当にごまかしたり取り繕ったり、大きく見せてる私じゃなくて…、めちゃくちゃな自分の内側を、自分の感覚を、本当のわたしを…。等身大の、そのまんまのわたしを見せるのが恐かったのかもしれない。


現実的な形になる前の「わたし」を否定されて傷ついたり、「わたし」を貫けなくなるのが恐かった。

自分の内側をさらけ出したいと思ってた。
だけど、誰かに否定されることが恐かった。
理解されないのも、認めてもらえないのも、悲しいのも…、ぜんぶ嫌だった。

だから、ちゃんと自分を受けいれてくれる世界を作って、そこで自分を表現できればいいと思ってた。
それがいいと思ってた。

ネット上に文章を書いて、共感してくれたり、興味を持って近づいてきた人たちとだけ関わればいいと思ってた。
それ以外は排除しようとしてたのかもしれない。
傷つかないように。自分を守るために。


いろんなつながりができても…、ほとんどの人に自分の書いた文章を見せてない。
「愛弓ちゃんが書いてるの、送ってよ。読んでみたい」と言ってくれた人たちから、逃げ続けてる。
逃げても逃げても、何年も、何度あっても「読みたい」と言ってくれる人がいて。『なんでだろう?』って思う。

だって私の悪い所も、めちゃくちゃなところも、いっぱい見てるでしょう?いっぱい迷惑かけられたでしょう?って。
私はいつも自分のことばっかりで、何もしてあげることができないのに…って。

そんなに私は、すごい人でも何でもないのに。
そんなに興味があるわけじゃないでしょう?って。
私の書いた文章なんて読んだって、そんなに楽しくないかもよ?って。
期待してるほど、すごいものは書けないよ?って。
小学生が書くような、めちゃくちゃな文章だよ?って。

…いや、本当は、すごくすごく恐い。
自分の内側を見られることが、恐い。

『この人は、お客さん』と思ってる人に見られても、大丈夫。
だけど、ちゃんと自立してる人、尊敬してる人…、「本当のわたし」を見せることができてない気がする人たちに見せるのが恐い。
彼女たちのことを『すごい人』と思ってるから、見せるのが恐い。
本当は薄っぺらくて、面白みのない人間なんだと思われてしまうことが恐い。幻滅されてしまうことが恐い。

…わたし、本当は自信がないんだ。
彼女たちはちゃんとまっすぐに向き合ってくれてるのに…。
めちゃくちゃな時のわたしのことも知っていて、それでも受け入れてくれてるのに…。

彼女たちは自分に自信を持っていて、まっすぐに自分を貫いていて。かっこいい。
だから、本当は私が、彼女たちの横に並んでいられるような人じゃないのかもしれないんだって思って、強がってる。「本当のわたし」を見せるのが恐かったんだ。


セラピストだった頃の私は、もっと自信を持っていたはずなのに…、どうしてだろう??

あぁ、それはきっと、「自分にできること」が形としてあって、それを提供できる環境があって、それを求めてくれるお客様たちがいたからだ。
そうやって、形があったり、人から認められることで、自信を持つことができてたんだなって。自信を支えてたんだなって。

文章を書くようになって…、特にnoteでは、何者でもない「ただの私」だった。
だから必死に「セラピスト」という肩書にしがみつこうとしてた時期があったんだと思う。

だけど今は、マッサージもヒーリングもスピリチュアルも、ぜんぶを手放して、本当にまっさらな「わたし」で表現していきたい。
そして、形を決めず、まっさらな「わたし」にできることをやっていきたい。

それを、うまく言葉で、簡潔に説明することができない。
長々と説明したところで、それをすぐに理解してもあれるとも思えない。
…理解してもらえたところで、それが本当に実現可能かなんて、私にもわからない。
ただ感覚的に、そこに導かれるから、それをするしかないんだって思う。

…それがわたし。
だけど、そんな「わたし」を理解できる人はいなくて…、いろんな人に「もっと現実的に考えろ」って言われてしまうと思いこんで、恐れてた。
だからいつも、「現実的な形」になるまで言葉にしないことが多かった。

noteには、「現実的な形」になる前の私がたくさんいるから…、見せるのが恐かったのかもしれない。
私は、「わたし」を否定されて傷つくことも、「わたし」を貫けなくなることも恐かったんだと思う。


…だからだ。
自分の頭の中やノートで整理をする時には、もっとブレがなくスムーズなのに、noteに書くときは、話が脱線しがちになる。言い訳もたくさんする。

『noteは、自分の思考の整理や、自分の気持ちに気づくために使おう』と思ってたはずなのに…、
人目を意識して、「わたし」を表現したい気持ちと、「わたし」を守りたい気持ちがせめぎあってたんだなって。
そりゃ、時間がかかる割に、頭の中が降るグルするわけだ。

形のない、ただのわたし。言葉で説明せず、体現していくしかないのかも。

あとはさ…、

セラピストだった頃も、ブログでアフィリエイトしてた頃も、恋愛も、人間関係も…、そういうのばっかりだった。

私はきっと、自分を必要としてくれる人がいることで、安心してたんだと思う。
自分にできること・形・居場所をはっきりと認識することで、人との関係性に安心感を持ってたんだと思う。それが、自分の自信にもつながってた。

だから、そういう自分でいる時は、自信をもって自分の道を突き進むことができたし。そういう人たちとも対等でいられてると思ってた。

…だけど、
セラピストという肩書も、マッサージもヒーリングも、自分にあったはずの形あるものがすべて消えて、何も説明できなくなった。
そこにはただ、そのまんまの何も持ってない「わたし」がいるだけだった。

去年石垣に来てから、いろんな人にマッサージ・ヒーリング・話すこと…をしてる。
喜んでくれる人も、「すごい」と言ってくれる人もいるし、「習いたい」と言ってくれる人もいた。
だけど、そのほとんどを無料で提供し続けて…、「お金を払う」と言ってたのに支払われないままのモノもたくさんあった。
そして、元気になった人、自分の進む方向に気づいた人は、どんどん離れて、自分の世界に戻っていく。
気づけば、私はまた一人になっていて、手元には何も残ってないと思ってた。
何もない、ただの「わたし」が残っただけだった。
持っていたはずのモノが消えて、「わたし」の純度が高くなっていっただけだった。

…それは、わたしにとってはすごく意味のあることだけど、私にとっては何かを飲み込むような気持ちのあるものだった。そして、他者からは理解されないものだと思った。

「どんな人間で、何をやっているのか。何をやっていきたいのか。」がどんどん説明できなくなっていく。
肩書・形がどんどん消えていく。

もう、自分で実現させて、作っていくかないんだなって。最近は思ってる。
言葉で説明することを諦めて、体現していくしかないんだなって。
そしてたぶん、それだけの強さを持ってるんだろうなって。
ちゃんと自分にエネルギーを使っていこう。

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