【ヨワビ:10のめ】とろ火と書いてヨワビと読む!?
弱火(よわび)という炎は幻だった。少なくとも湯加減であって火加減ではない。このような読みまちがいや思い込みから新たな造語がうまれることはある。「とろ火」$${^{※1}}$$もそうしたもののひとつだろう。嘘から出た誠ってやつだね。
1.「弱火」とは
そもそも春秋五覇の故事により、樹々が盛んに燃えることを「大火」といい、石炭や木炭など安定して燃えている熾火が「鶉火」で、ジリジリとして暑い夏の夕暮れに息苦しい輻射熱を「西火」といって、人肌を温めるような優しい炎のことは「北火」といった。きわめて弱い炎とは「ほっかほかの『ほっか』」だ。
ところが、神さまの思し召しにより、この鶉火から弱火(よわび・とろび)の言葉が明治末につくられると、料理人にかぎらず中流華族のお嬢さまがたや女学生、やがてご家庭の主婦にいたるまでとって代わるように使われてゆく。
料理研究家たちによって「弱火」の言葉が広まっていった。
刻は大正浪漫の時代、ガスの炎には大都市への憧憬もあった。
憧れも皆で落ちると崖っぷち。太平洋戦争の戦時に産業の主役は女子であり、平成になって社会の軍国主義的統制化$${^{※2}}$$と、これも無縁ではないのだろう。そこにみられた焦燥感は、やがてガスこんろにもあらわれる。
平成になるとガスこんろに「とろ火」ボタンがついたのだ。
2.普及しなかった「とろ火」
ガスこんろの「とろ火」とは、もちろん「安心機能」のことだ。「立ち消え安全装置」がついたことでおきた不具合を克服する仕組みを「とろ火」といった。
火加減やら火力とはまったく違うじゃん。
…… なぜこんなものが付いたのか?
平成末からある「立ち消え安全装置」というのは、センサーつきガスこんろによりできるようになったことのひとつだ。つけっぱなしになり忘れていた火を、コンロのセンサーが感知して消してくれる。2008年(平成20年)4月以降に製造されたガスこんろすべてが、このうっかり火災を予防するSiセンサーつきになった。
ひとつには災害時の火事が、台所でつかうガスこんろからもれ出たガスからはじまっていたからだ。阪神・淡路大震災を忘れないためにも、こうして起きる爆発や火災を防ぐことが急がれた。
さらには電子レンジの普及により「弱火」の必要がなくなったこと。核家族化がすすめば料理も少人数分だけつくるからだった。
4、5人前ならコトコトとガス火で煮込むより電子レンジであればCo2も出さす、料金も1/10ほど安い。学校には電気炊飯器も配られているからね。
ところが、そうした理屈でわりきれないのが料理というものだ。いちど覚えた調理法は変えられない。いつものように弱火をつかいあれこれ煮込むとガスの火が消えてしまうトラブルが続出して、苦情が相次ついだ。そこでメーカは立ち消え安全装置の制御法を改良し、安心して弱火の煮込み料理ができるようにした。
これが「安心機能」であり多くのメーカが「とろ火」と呼んでみた。忘れていた火は消して欲しいけどコトコト煮込むときは火を消さないで欲しい。このわがままな仕組みのことを「とろ火」と呼んだ。実際はお粥にしかつかっていないことは調査から明らかなので、これはよくよく考えるとひどくわかりにくいため、あまり普及せず最新機種ではこの名称そのものが使われなくなっているという。
ただひとつ良かったことは火加減が自動制御される時代になったことだ。
安心という付加価値が「とろ火」だった。
3.雉子も鳴かずばとろ火
時代は新しい言葉を求めていた。これだけだと、ちょっと物足りないだろう。そこで具体的に、なにかと話題のジビエ料理で言葉を比較しみていこう。
明治末に書かれた料理本では初めからジビエ料理が紹介されている。だけど、気がついただろうか? おかしなことが書かれているよね。
・雉子の切り身でなく、一羽丸ごと焼いていること。
・火加減をなぜか温火と呼んでいること。
この[弱火シリーズ]を読んできたなら答えは簡単だろう。明治期の西洋料理は主人が食卓でそれぞれの皿にひとりひとり切り分けて出していた。そのため、大皿に盛って出さないといけない料理人は全員分を一度につくる。これだと鍋やフライパンでは間に合わないので、焼くときはオーブンをつかっていた。
今のように採れたての新鮮な食材を一皿づづ小分けにして作らなかったのさ。
うま味調味料もなかったからね。肉は熟成させてから炙るのが普通だった。
ジビエ料理によく使われる言葉、フェサンタージュ(Faisandage)は、フランス語で「ジビエの熟成」を意味するという。もともとはフェザン(雉)を調理する前処理として伝統的におこなわれていた。雉はとても淡白で、肉質はしっかりしていてパサつきやすく、野鳥のなかでも長期の熟成が必要とされる鳥だ。
しかし日本では、しょうゆのおかげで熟成することなく雉子を野で捌くと、そのまま切り身にし焼いていた。こうした調理方法を「雉焼き(日本料理)」という。そこからみそなどさらにを含ませれば、「ブリ照り」といった、今はご家庭のレシピから消えた『照り焼き』料理になる。
どちらもつかわれる炎は、薪火と炭火とのちがいはあっても熾火(強火の遠火)だった。これを「弱火(とろび)」という。
ひとつひとつを直火で焼くときは「弱火(よわび)」といい、そこでオーブンをつかうなら「温火」と使い分けた。これが火加減のことだ。
あつかう炎を「弱火(とろび)」、火加減が「弱火(よわび)」ってことだね。
ただここでは、どちらかといえばローストターキーにちかい料理になっている。あえていうなら素朴な家族料理の「キジの丸焼き(アメリカ)」、あるいはジビエの雉を低温調理法で蒸した「胸肉のエスカロップ(フランス料理)」、またはざっくりと「ローストターキー(イギリス料理)」といえるだろう。
調理器具による火加減の差こそあれ、4つどれもが炎は「弱火(とろび)」だよ。
いずれも40〜50分かけてじっくり火を入れる。ほぼ仕上がりは同じ料理をめざしているのだが日本料理までを考えると火加減はとても多彩になった。
こういった多くを呑み込んで俗にいわれる『和食』では、ぜんぶまるっと
最も弱い火加減を「弱火(よわび)」
といい区別してきた。平成になるまではね。それが今は明らかに語感だけが真逆になっている…… 調理法は現代でも微塵も変わらないのだけどさ!
どうしてこうなった⁈
ややこしい「とろ火」という火加減ができたからさ。
安心・安全のためにだね。
4.定着した「ヨワビ」と「トロビ」
面白いことに、調理師学校では「とろ火」を教えていた。
三省堂国語辞典には、誤読(「よわび」と読むのは間違い)とあるので、「弱火」「とろ火」は、どちらも「とろび」なのだろう。事実、この辞書には「弱火(よわび)」の項目はなかった。
鍋底につかない程度の火などなど書くことならいくらでもあるのにね。私なんぞは、できもしない火加減で悩むぐらいなら、今の調理器具はどれも機械がやってくれる自動制御なのだからボタンにして「強・中(3,4,5)・微(1,2)」としておけば? と思うのだが、そこはプロらしさを望む坊やたちだ。専門家も泣く子には勝てんのよ。
明治末の弱火はオーブンにおける温度管理のことだった。 つまり弱火(よわび・とろび)は本質的におなじ火力で時間(火加減)だけが違うものだ。ただ中・英・日本語のあいだで言葉を比較すると、わずかなニュアンスの差が見られる。
・文火・鶉火(中国語)←→a slow fire(英語) ←→ 緩火(ゆるび)・弱火(とろび)
・微火(中国語) → low heat(英語) ←→ 弱火(よわび [洋食/火加減])
・西火(中国語)←→low heat(英語) ← 微火(よわび)・北火(ほっかほか)
そもそも、火加減とはアナログなものだ。火力の上下は人間がおこなう。調節は感覚であって自動制御なんて森の小人さんはいない。むしろ、母語のあいだの概念まで同じになることは稀だろう。
つまり、成り立ちどおり弱火と書いてさっくり「とろび」と読むだけなのだが、 low heat の訳語が二つもあってそれもまた煩わしい。輻射熱で温める韓国料理もあるからね。昭和なころは、これらをまとめ和・洋・中華で使い分けるようにしていた。
・薪火 ・・・和食「弱火(よわび)」 [温度管理・湯加減]
・炭火 ・・・洋食「弱火(とろび)」 [オーブン・火加減]
・直火 ・・・中華「文火(とろび)」 [ガス・コンロ]
やれやれ一件落着。めでたし、めでたし•••のはずだった。
ところが、平成のボキャ不足たちにとって、和食の料理人なら「よわび」と読んでも良いなんてこと怒りしか沸かないのだろう。そんなに和食がえらいかよとね。ほめて育てた報いだよ。先生なんてのもタイヘンなものだね。
そこで「とろ火」という言葉が生まれた。
読みかたといった国語には触れず、設定すればいい感じに自動調節してくれる火加減を『書きわける言葉』が必要だった。「調理師学校では、こう教えています」であれば強い根拠になるからね。
なにより、教育現場の工夫であって悪意が感じられない。知るところだと角川グループのレタスクラブなどからはじまり、どのレシピサイトも競うように調理の『基礎知識』に掲載しはじめる。そこへネット社会の到来と、厚労省が主導する『食育』の啓蒙もあって、わずか10年あまりで、
「強火 > 中火 > 弱火 > とろ火」が定着
していた。
後悔にウソをかさねた結果、死語から生まれてきた亡霊だ。
弱火(よわび)という火加減は、調理中の行動を整理することで機能が絞られ、中火(弱)におきかわることで無くなっていたからね。とはいえ、小学生ぐらいの学力では「弱火(とろび)」とは読めないだろう。勉強はやさしい言葉で習って難しい事柄へとすすむものだ。おかげで、弱火(とろび)をつかう「ぶり照り・茶碗蒸し」、カレーを「玉ねぎから炒める」といったアナログな火加減がわからなくなり、ご家庭のレシピからも消えた。
去るものがあれば新たに生まれるものもある。料理研究家たちによってそれまで出来なかった「低温調理」$${^{※4}}$$が研究・開発されている。ジビエもふたたび好評になってきた。なにより、料理をすれば誰もが知るのだが、これに時間をかけることは幸福感につながる。
(追記 2024.2.29)
昭和な時代、弱火(よわび)という炎があった。経験が必要でアナログな火力だった。平成になって自動制御がすすむと幻になっていた。ただ、多人数のため料理をつくるプロには必要な火力だ。当然のように調理師学校では教え続けた。それもデジタル化がすすんだ令和になると、こうした炎も消えてゆく。残されたものは、とろ火と書きヨワビと訓む、摩訶不思議な亡霊だけなのだろう。
平成はすでに遠く、昭和がはるか遠くになりにけり。
弱火は、あつかう炎を「とろび」といい、火加減を「よわび」という$${^{※7}}$$。それ単独では言葉の由来から「とろび」と訓む。
5.[弱火シリーズ]の結論
・あつかう炎を「弱火(とろび)」、火加減が「弱火(よわび)」。
・弱火と書いて「とろび」とは読めなくなった。
・自動制御により炎と火加減の区別すらなくなる。
・多くの「弱火」は火加減で「中火の3」へおきかわった$${^{※6}}$$。
・死語になっていた「弱火(よわび・とろび)」を調理師学校で使い続けた。
・時代が求める「とろ火」までできて、もう語感すら失われている。
お役所言葉は漢字が望ましいやら、文化庁が「弱火(とろび)」であるなら保健所は「弱火(よわび)」みたいな縦割り行政の陰がみえかくれはするのだが、そこには専門用語をネットでかたるアナログさが諸悪の根源だった、と今の私は思う。
(著者 分注)
※1 :「弱火(よわび)」は明治の造語だが、平成になってから意味は違ってくるのでデジタル感を表現ため「ヨワビ」とした。それまで low heat の訳語は「微火(よわび)」だったからだ。そのつど「とろ火」と読みかえてほしい。
この語では、①和洋中華でつかいわけをしていないこと、②設定する火加減はコンロが自動制御すること、③結果として語感だけ「弱火>とろ火」と真逆になったこと。こうした3点を表現している。
※2:個人の感想だからそれ以上の他意はない。軍事的な意義が優先され軍隊用語が社会で一般化するぐらいの意味だよ。
※3:調理の際の行動と火力の関係を比較する調査から、昭和にはガス火の「弱火」がほぼ使われておらず平成になると「中火の弱」へ代わっていたからね。
※4:それまではパサパサしていたが、ジューシな「鶏胸肉」は低脂肪高カロリの食品でクックパッド(レシピ検索「低温 胸肉」)でも人気料理のひとつ。美味しくなりコンビニでもお馴染みでメタボを死語にしたとまでいわれる。
※5:[欠番](朝めざめたら鍋のジャガイモが弱火で炭…… みたいな絶望譚があったのだが X から投稿が消えていた。保険会社と不動産屋から厳重注意を受けたかネタだったのだろう。これだから呟き系は……)
※6:調理学校では多人数向けにつくることもふまえ、当然、アナログな「弱火(よわび)」も教える。ただ、これは湯煎、湯炊き、あるいは湯留めといった湯加減だ。ご家庭なら永く煮込むための「弱火」は、電子レンジで火を入れ「湯留め」にするといいのさ。
(著者 分注追加 [2024.2.29])
※7:この火力と火量のちがいどちらであろうと、料理に時間をとることは幸福感につながるものでデジタルの令和になって、そこ表現する言葉はまだない。
【更新履歴】
第1.1版, 2023.2.28: 全体の記述を見直し「3.雉子も鳴かずばとろ火」を追加。
第1.2版, 2023.2.29:これまでのまとめ「弱火(よわび)という炎は幻だった。少なくとも湯加減であって火加減ではない」と先頭に、デジタルの令和な言葉はまだないと分注末尾に、それぞれ追加した。ちなみに、大谷結婚おめでとう。
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