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自分の体を誰かに差し出す

経験をしたことがあるかね?

『トマトさん』という絵本を眺めていて、ふと思う。
真夏に畑のトマトが川で涼むお話。作者の田中清代さん描くダイナミックな絵がお気に入り。
美味しそうなトマトだこと。

絵本でトマトを擬人化する時は必ずと言って良いほど、例の赤い部分に顔があり、ヘタが帽子のように付いている。

だが、よく考えたら、その「赤い部分」は、植物の一つの部分であって

茎や根っこまで含めて、どれも人生ならぬ「トマト生」には、必要なパーツだ。
しかし、人間は、赤い、食べる部分だけを『トマト」と呼ぶ。茎を、トマトとは呼ばぬ。

長い歴史の中で、人類史とは戦争と飢餓との対峙であると言っても過言ではないほど、近代までは、「食べる」ことは、最重要課題であったから、トマトもナスもジャガイモも、食べられるかどうかだけを重要視すれば、人類が「食べられる部分」だけに名前をつけたのは、ある意味正しい。

「どんぐりむら」シリーズ。どんぐりはまた面白い。「どんぐり」とは、コナラやマテバシイなどブナ科の樹木の、硬い木の実の総称らしい。どんぐりは、それほど食物としての価値が高くないからか?面白い。

桜はまた、さらに面白い。『さくららら』という絵本を見ていて思う。

桜は木の幹があり、根っこがあり、枝がある。

然るに、あのピンクの花びらだけをもって、桜、だと捉える日本人は少なくない。
桜は「3〜4月のもの」だと。あまつさえ、季語にもなっている。
春は桜にとっては、移ろう季節の一つに過ぎぬのに。

名前とは、名前とは。

人間が名づける時、その存在を意識する、または、存在を意識したから、名前をつけられた、とも言えるが、まあ、そういうことなんだろう。

そんなことを考えると。

人間が、植物などに名前をつけるのは、もちろん植物の気持ちなんて考えもしない。一方的な行いだ。

この行いを、人間は、愚かにも、「対人間」に、悪びれもなくすることがある。

例えば、(私にはないが)、男性受けのする豊満で張りと艶がある魅力的なバストを持っている女性を「あの胸の大きい子」と呼ぶみたいな。

私には幸か不幸か、「ジャッジする人」(つまり、社会的権力者)が好むパーツを、肉体的に一切持ち合わせていないため、そのような狼藉とは無縁ではあるが、万が一そんな風に呼ばれたら、それは我がdignityを失わせる卑劣な行為だ。私の意図するところではない。

女は子宮で物を考える、

女性の旬は25歳まで、

女性は子どもを産む機械、

みたいな物言いも、もしかしたら、その流れかもしれない。

常に「ジャッジされる側」である私はその違和感と闘い続ける。

++++++

閑話休題。

自分の身からできた物を、別の生き物が命を長らえるために食べるなんて、すごいことよなぁ。しかも、トマトの苗自体は生き続けるならば、また新たな(人間の言う)トマトを、量産してくれる可能性がある。

さて、そんなことを考えていたら、人間は、自分の肉体を誰かの生存のために差し出すことは久しくしていない。(死んだ後は別だが)「久しく」ったって、ひとまず、5,000年くらい?雑だけど。

肉食動物に、襲われて食べられるくらいか。

吸血鬼か。

鬼滅の刃に出てくる鬼か。

糞土師は、なるほど、ある意味、自分のうんこが、生態系に役立つか?

第二次世界大戦中の、ガダルカナル島で、人肉が食べられた話は伝え聞いたが、それも死体の話か。
他にあるだろうか?

死肉として何者かに食されるのではなく、トマトみたいに、生きながら(しかも、苦しまずに)自らの何かを、他者の生存のために差し出すことは。

献血か!?

臓器売買か!?!?

と、つらつら我ながらくだらないことを考えていたら!

なんと!

私、した!したんだよ!
自分の身を他の生物のために差し出す経験を。

そうだよ、そうなんだよ

子どもを産むことだ。

懐妊というのは、スーパーリアリストな私を戸惑わせた。自分の体と感覚は全く紐付いていなかったし、体の声を聞くことは全くなかったから。

まるで準備不足のまま子どもがお腹に宿ってから、そこから学びが始まった。
自分が不摂生したり、怒りに呼吸を乱したり、悪い姿勢を取っていたりすれば、お腹の子に障るだなんて、オーマイ、そんなこと聞いてない!と。
寝返りも打てず、下痢したらどうしよう、風邪も引けない!薬も飲めない!ぎゃー!

しかし目を白黒させていても仕方ない。腹を括り、十月十日、頑張った。頑張ったよ!

お腹に子を宿すというのは、なかなかにエキサイティングな経験だった。

お腹の中の子は私の細胞の一部で、私が食べた物がそのまま彼らの細胞分裂に役立つし、私の感情も彼らの人生に直接左右するくらい、特に負の感情は、お腹の子を苦しめるし、私の誤った行い一つで簡単に人を殺める危険性が常にまとわりついた。
一瞬たりとも気を抜くこともできず、決して後戻りもできず、やり直しも効かない一発勝負だった。しかも、優先順位は下がるが、子どもに何かあった場合、自分の命を危険に晒すことにも、繋がりかねないのだ。オーマイガッシュ。

FEEDどころではない。一心同体なのだよ、奥さん。

そして、さらに、続きはエンタテインメントと言っても良かった。

乳首から、ミルクが出るのだ。この経験は、なんだろう、説明できない事象だった。
世の中の女性が、何食わぬ顔をしてこれをやり続けていたのか。私には、ただただ目を白黒させるばかりだった。

だって、乳首だよ?迸るんだよ。そんな経験、目が白黒しないかい?(私だけ?)
そしてそれは、赤子にとっては最大の栄養分になるらしいし、産まれて数ヶ月までは、それだけで育つんだよ。すごくない?それ、子どもが飲まなくなったら、出なくなるんだよ。すごくない?

乳首を噛まれて痛いとか、出なくて辛いとか、擦れて痛いなど、本当に苦労した人は多いとは思うが、それは外的な痛みであり、基本的に、授乳自体は痛みは伴わない(その代わり気持ち良くもないが)。

おお、自分の体の一部を、誰かのために差し出したことが、あるのだ。

赤子の立場で言えば、母乳がトマト、私の体は、茎や根っこなどの苗の部分だな。

苗が不要なのではないし、赤子にとっては、私の笑顔も声かけも童歌も抱っこする両手も、大切なパーツだろうから、まぁ、どちらも大切、ということで。

本当に、絵本を読みながら、つらつらとくだらないことを考えてしまって、私の大事な人生は過ぎ去る。

それにしても、授乳中は、髪が抜け落ち体重が減り、疲労していた。命懸けなのだ。生命をひり出すのは。

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