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言葉の大切さ

本を生業にしていると、言葉の大切さが身に染みる。

りんごは赤い
りんごが赤い
りんごも赤い
りんご 赤い

てにをはだけでもこの違い。

最近流行りの「言い換え」も、なかなか味わい深い。

昔、就職活動中の自己紹介でも同様にあったが、

せっかち →  判断が早い
頑固 →  信念が強い
優柔不断 →  慎重
友人が少ない →  孤独を恐れない

などなど、小学生の親としての心得みたいに、学校から配られた記憶がある。

本当にその通りで、我が子への声かけに気をつけたい。ものは考えようだ。

敬愛する須賀敦子氏のエッセイは、言葉のセレクト、構成、繋げ方、文体、何をとっても恭しい。氏の著作を読むだけで心が落ち着き身体中の細胞が疼く。

言葉は、私をとてつもない幸せの境地に至らせてくれる。快楽とも言え、私なりのセルフプレジャーである。

また、ペンは剣より強しの如く、言葉は自分を守ってくれる鎧の存在でもある。
適正なアウトプットは、ストレスを溜めない。

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勘違いされると困るが、相手を言い負かす(ように見えて実は中身は負けてる)ためのアウトプットではない。今、流行りのなんとかゆきとかイェール大学の准教授とか吉なんとか知事のような、中身の薄い話し言葉のことでは断じてない。

実際、彼らの論調は、誠実に冷静に耳を傾ければ、聞く価値があるかを判断できるのだが、社会というのは誠に不可思議なものだ。メディアの罪も大きい。菅元首相と対談するそうだが、そこにある属性の方々が500人と集まるようで、世も末。(イェール大学には悪いが、ある「頭の良さ」と倫理観や人生観とはまとめて論ずる話ではなく、学者全てが人格者ではないし、なんなら彼らの頭が悪いとも言ってない、念のため。念のため、が多用されます)

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適正なアウトプットとは、自分の内部との戦いに、言葉で勝つ、ということだ。
嬉しさ、悲しさ、楽しさ、憎しみ、絶望、そう言った感情を、適切に言語化できることは、ストレスから解放してくれるし、力になる。

好きなもの、アイドルや食べ物、ペット、パートナー、趣味なども、多彩な言葉で鮮やかに伝えてくれると、聞いている方も楽しくなる。
「好き」「いい」「素晴らしい」だけでももちろん構わないが、好きを言語化するのは意外に楽しい。自己分析にもつながる。おすすめする。

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人間社会には必ず陰陽がある。

幸せになる言葉があれば、その逆もあるということだ。

チクチク言葉、とか言う言葉。
バカ、とか、嫌い、とか。その言葉自体が侮蔑的であるもの。

また、言葉自体はチクチク言葉ではないが、嫌味や侮蔑的に受け取れるもの。

「上がってぶぶ漬けでも」「お宅のお子さん、ピアノ上手くならはったねぇ」は、上級者向けであり、私には一切通じないけれど。

言葉は、心を殺す。それも、いとも簡単に。

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大学は言語学だった。その後ラテン語にハマった。ラテン語という、書き言葉の、年月を経て変わっていく様が、非常に面白かった。
ローマでローマ時代の建物の言葉が読めるのは不思議な体験であった。

英語もそうだが、日常でよく使う言葉ほど、変化する。

イタリア語の動詞andare(行く)の活用は
vado vai va andiamo andate vanno

なんだよVadoって

と思ったが、よく使う動詞ほど不可思議な活用を挟むものなのである。

言葉は世に連れ 世は言葉に連れ…

いとをかし
おかしい、は、1,000年前は、おかしい、ではなかった。

まぁそんな与太話はさて置き。

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最近、よく聞く言葉。

グルーミング。

元々は、河合雅雄氏の著書にあったか、たいそう昔に出会った言葉である。
哺乳類の毛繕い行動のことで、精神的安定のための大切な行動とのことを著されている。

絵本業界でも、絵本を子どもに読むことをグルーミングの名で、子どものための良い行動として語られる場もあり、親和性高い言葉ではあった。

そもそも、グルーミングという言葉には、毛づくろい、くらいの意味しかないはず。

その言葉自体が良くも悪くもなかったはず。

河合氏の著作からの印象は、「良い」イメージだった。

人間にとって大切なもの、温かな気持ちを呼び起こすものだった。そして、絵本業界でもそのように使っていた言葉だ。(少なくとも私は)

長い間、そう思っていたのに、

最近、ジャニー喜多川の顔が思い浮かぶようになってしまった。

イメージは、どす黒、最低、嫌い、罪深い、メディアも同罪、、、などなど、暴言の限りを尽くしても足りない。私の中の負の感情が、全てジャニー喜多川の顔に詰まっている。

そんな、顔が思い浮かぶようになってしまった。

河合先生が生きていらしたら、なんとおっしゃるだろうか。

言葉は世に連れ…

因みに、西欧世界の「豚」も、なんだかなぁ、豚に罪はないんだけどなぁ。扱いが酷過ぎて酷過ぎて。言葉、転じすぎだろう?とため息をついた。
「豚」というだけで、ものすごい侮蔑的表現になるなんて。

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全ての事象は政治マター、の私は、やはり、政治家さんたちの言葉にも、抜かりなく耳をそばだてている。

国会の審議、委員会やぶら下がり、記者会見などでの言葉遣いの他、最近ではWEBでも政治家自身が発信しているのを目にできる。本人が書いていないだろうなこんな戯言、と思いつつ、もし代筆なら、もっと良い人を雇った方が良いのではないかと思わせる、いずれにせよ稚拙ぶり半端なし。

最早、政治家が、建前すら口にしない時代になってしまった。

暴言の数々も、観測気球の如く乱発され、次第に酷さを増している。

国会で嘘を吐いた首相もいたし、最高学府出てこの発言か、と、劣化を嘆きたくなる官僚も多数。説明責任を果たしていく、と馬鹿の一つ覚えの人もいたし、国民の声に真摯に向き合う、とか、聞く力、とか

言葉をバカにするな。

言葉を大切にして来た私には、きちんと話せない政治家は、もう政策云々の前段階の話である。小学生からやり直してほしい。
曲がりなりにも民主主義の国なのだ。対話、寛容、協力、譲歩どこにも当てはまらない。

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言葉自体に罪はなし。

私たちの日常の振る舞いの結果の、連なりで、言語活動がある。

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