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夫婦別姓を「認める」

■日本維新の会・馬場伸幸代表(発言録)

 (選挙における女性候補の擁立について)選挙は非常に厳しい戦いだ。女性の優先枠を設けることは、国政でも地方議会でも我が党としては全く考えていない。衆院選でも、選挙区でたった1人が当選するという厳しい選挙の中では、私自身も1年365日24時間、寝ているときとお風呂に入っているとき以外、常に選挙を考えて政治活動をしている。それを受け入れて実行できる女性はかなり少ないと思う。

 女性が政界に進出するのはウェルカムだが、今の選挙制度が続く限り、女性枠を設けてもなかなか女性が一定数、国会や地方議会に定着することは難しいと思う。選挙制度、定数削減とともに考えていく。

朝日新聞2023/3/28

こんな記事を見かけ、ふと思う。

女性に、政治家になるのを認める。という思考。

※馬場氏の発言の、様々な至らなさは、仕方ない。維新の人たち(と、一緒くたにまとめてしまって申し訳ないことであるけれど、私の目にはヒトラーとゲッペルスの違いくらいにしか見えない)は、ロジックが破綻していたり、おかしなことを口走る傾向があるので、諦観。

また、

日本で初めての女子大学生の誕生は1913年の東北大学らしい

東大の創立が1877年で、東北大学が女子の入学を許可するまで36年間。
東大に女子が初めて入学したのは1946年。

大学が男子大学だけの時代があった。しかも割と最近まで。

因みにお茶の水女子大は1875年(明治8年)に日本初の官立女子機関「東京女子師範学校」として設立。

女性に大学進学を認められたのは、1913年。

嗚呼、世に「認める」こと甚だし。

奴隷の政治参加を
黒人の公民権を
庶民の政治参加を
女性の政界進出を
夫婦別姓を
専業主婦が働くことを
外国人の在留資格を
女性の参政権を
中絶を
大学に通うのを

など、枚挙にいとまがない「認める」行為。

「認める」とは、この場合、

間違いないと判断する。「犯行の事実を―」「過ちを―」。差し支えないとして、許可する。
 「例外を―」

この意識が近いが、「許可する」みたいなこと。

「認める」とは、本当に引っかかる言葉だ。認めるとは、「認める方と認められる側が存在する」ということだから。
つまり、天賦人権説と異なるということだから。

私は割と、認め「られる」側である。

親から。年上の人から。いじめっ子から。先生から。経理から。人事担当者から。会社から。経営者から。上司から。取引先から。夫から。夫の親から。PTA会長から。住んでいる自治体から。日本政府から。白人から。アメリカから。イタリアやフランスに住んでいたころは、それぞれの政府から。メディアから。
男性から。日本政府から。

あまり、認める側に立ったことがない。
だから、日々至る所で「認める」と耳にする度に、胸が痛む。「難民の在留資格を認める」と言われると、現在のところは幸いにも私は難民ではないが、我がことのように切ない。「同性婚を認める」も同様、私は同性婚はしないが、チクチク言葉だ。

翻って、認めることが多い人もいるだろう。
資産家の家庭に生まれたり、岸信千代氏や岸田翔太郎氏みたいに政治家の家系に生まれたりと、生まれついて権力を手にしている人もいれば、権力を頑張って手にした人もいるが、それ以外に、「ただ(心身ともに健康に生まれた)男性」というだけで、認める側に立てる人がいるのは確かだ。

男性の中で、日々、マイノリティに心を尽くしている人がいる。誰も求めてないのに、自分で、アグレッシブに、ボランテリックに、例えば人種差別と戦っている人。トランプに対する見方や黒人の絡む事件、メディアの報道のあり方、エンタメの中の差別など、素晴らしい見識を魅せてくれる人で、リベラルと言われたりオピニオンリーダーと扱われたりする人。

その人たちが、女性が絡むと、途端に焦点をボヤけさせ、腑抜けになる現象は、何か言葉になっていても良いくらい、頻繁に出会う。

そこまで人権にセンシティブに思考を張り巡らすことができるのに、なぜ、こと女性になると、その磨かれた手腕を鈍らせるのだ。

私も「認める」立場に立ったことがないと思いながら生きているが、もしかして誰かにとっての認める側である可能性は、常に心得ていると念のため付け加えておきます。

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認める側は、気持ちいいだろうな。と思う。

同様に、施しを与える側も。

施しを受けることは、dignityを傷つける。
被災地に送る、折り鶴や古着、古本。養護施設に送るランドセル。私は正直、アフガニスタンに送る古いランドセルも、手放しでは喜べない。

施し。人は、与えるのを好む場合、見返りを求めることもある。

ギャラリーストーカーやパトロンもその一種。

自治体で、クーポンを配る場合もそうだし、そう言えばお肉券などのアイデアもあった。利権問題ではあるけれども。
最近は、財務省から、施しを受けることが多い。

施しを受ける側は、なぜか平身低頭で、有り難がらなければならない。

「火垂るの墓」で、中学生の主人公に向けて2023年の私たちが、社会を渡っていくだけの技量が乏しいだの、感謝の気持ちが足りないだのと言う指摘をするのは、どの角度からも誤った考えだが、ひとまず、弱者は申し訳なさそうに、謙虚に居なければならない風潮は、なんとかならないものかな、と思う。

その昔、ニューデリー(かどこか)に行った時、路上生活者(と言うのか)に施しを与えたら、私の方が「ありがとう」と言う、みたいな経験をしたのは、非常な驚きだった。

施しをさせてくれて、ありがとう

という訳だ。もちろん先方は、当たり前な表情で、エラソーにしている(ように、見えただけかもしれない)。

ブックサンタという試みがあるようで、2022年は800書店くらいが参加、5万冊ほどが届けられたよう。困窮生活の子どもたちに、本を届ける活動のようである。
とてもステキな試みではありませんか。

具体的には、「ブックサンタ提携書店」で、寄付したい人が絵本を買って、それを書店からブックサンタ事務局へ送り、ボランティアサンタが届け先へお届け、という流れのようだ(間違っていたら申し訳ない)。

ホームページに、「メッセージはつけられますか」というQがあり、目をひん剥いた。贈る人がメッセージを送るというのは、まさしくマスターベーションだなと。自己満足、承認欲求か。
ホント、弱者でマスターベーションしないでほしいな。

まぁ、それはさておき。
取り組みは非常に素晴らしいし、書店も利益になり、三方よし、経済も動くよ、というWin-Winの、営利企業なら100点満点、査定もバッチリ出そうな企画であるが、どうも諸手を挙げて同意できずにいる。
私は、別の方法で、できないかな、と、いつも考え、まだ答えは出ていないのだけれども。

本は、おもちゃと違うのだ。
自分の内面と対峙し、心の声を聞き、思考を育て整理するものだ。
幼子ならば、新しい言葉との出会いだったり、赤ちゃんなら、安心できる関係の大人との、音や関わりを楽しむ時間としての絵本の存在があるのでは。

適切な大人との関わりや、保護、安心して暮らせる生活があって初めて、絵本が生きてくる。物体だけがあってよいというわけではない。

ブックサンタ。確かに素晴らしい取り組みだ。でも、私はこの時代、これからの時代には、ただ本が目の前にあるだけではいけないと思う。

誰かが選んだ本ではなく、「子どもたちが書店に行って、自分のために好きな本を選び、買う」という行為の方が数倍いい。その方が、10年後、20年後の種まきにならないか?

選び方が分からないなら、それを支援すれば良い。
結局、本をあげるだけでは、本質に近づかないんだ。

本を手にできない子どもたちに本を贈るという行為自体は、繰り返すが素晴らしいと思う。(本当に私はASDで、敵を作りやすい)

でも、本が手に入らないのは一体どう言うことかをもっと突き詰めて、考えたら、さらに素晴らしい取り組みができるだろう。
自分で本を選ぶという選択肢がない子どもたちの「なぜ」を取り除くことをしないといけない。
親がネグレクトか。
親が本を読まない層か。
貧困で買えないか。
側に親がいないか。
書店の存在を知らないか。
近くに書店がないか。
選び方が分からないか。
本がどんなものかを知らないか。
読書という行為の先にあるものを想像できないか。

理由はもっと多様であると思う。


人の善意の活動は、何か事が起こればすぐにでもなくなってしまう。情熱を持った人がいなくなれば、またはその人の情熱が無くなれば、そして善意をする人が余裕が無くなれば、すぐに消滅する。

それよりも、社会システムを、政治を変えて行かなくては、サステナビリティとは言えない。

子どものために

と、活動する人が、みんな政治に声をあげたら、きっと変わるのに。

以下、谷口真由美氏と藤田早苗さんの対談は、面白かった。

人権と思いやりがごっちゃになっている点が、日本で人権を語るときのいちばんのネックだと私も感じています。帰国のタイミングで、大学を行脚して講義をしているんですが、その点をじっくり説明すると、学生は口をそろえて「知らなかった」と言います。道徳と人権の大きな違いは、道徳は場所や文化、時代によって変わる相対的なものですよね。対して人権は、すべての人間が生まれながらにもっているもので、さらに思いやりと違って、政府が実現する義務を負っているものです。でも、入管施設で起きていること一つをとっても、人権の概念が日本に全然浸透していないことがわかって愕然としますよね。

谷口 日本人は、「かわいそうな人」には、その時だけは何とかしてあげようと思うんですよ。ウクライナ戦争でも、東北の震災のときも、多くの支援が集まりました。でも、震災から数カ月たって、欲しいものを聞かれた被災者の女の子が、「まつエク」と答えたら炎上したらしいんです。被災者のくせに贅沢だって。被災者にも表現の自由があるし、美を求める権利があるのに、弱い立場におかれている人が、自分の権利を主張することに対しては、日本では批判が出るんですよね。この本に書かれている伊是名夏子さんの例(※1)も、背景には同じ構造があると思います。

日本人の「思いやり」って、上から目線の「施し」とか「お恵み」になりがちなんですよね。みんな「お情け」は大好きで、だから「深イイ話」は大好き。なんだけど、人権の話はいつまでたっても出てこないんです。

※1 2021年、車いすを利用するコラムニスト伊是名夏子さんが、無人駅を利用しようとして事実上の乗車拒否をされたことをSNS上で公表したところ、「わがまま」との批判が殺到した

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