第二のくしゃがら「アウアイ」

バイト先に中学生と思しき女子が二人、「まかセロリみたいな言葉が好きなんだよね」と言いながら入ってきた。片方が「他にどんな言葉があるの?」と聞くと、少し間が空いて「確かにアフガニスタンとか」と答えた。
全然別物だろうが、と思いつつ「確かにアフガニスタン」は不思議な心地よさがあることに気づいた。しばらく考えて「確かに」と「アフガニ」の母音が完全に一致していることを発見した。「確かにアフガニスタン」だけではこれほど感動しなかっただろう。ツッコミ→疑問→解決というプロセスを踏んだからこそ(またその回答があまりに鮮やかだったからこそ)私を喜ばせるに至った。

しかし多くの人は多少の違和感を覚えているだろう。それもそのはず、「確かに」と「アフガニ」は母音が完全には一致していないのだ。これは私が「イ」と「ウ」を同じ音素として捉えているヤバヤバ野蛮人ということではなく、バイトから帰った私の記憶違いであったということだ。それから「アウアイ」を母音に持つ言葉を探してはいるが一向に答えが見えてこない。
なぜすぐに私が「(アウアイ)アフガニスタン」が韻を踏んでいることに気づかなかったかといえば、すべての子音が異なっていたからである。それゆえ韻という発想に至るまでが遅く、発見したときは快感があった。
しかし今「アフガニ」から「アウアイ」を母音に持つ言葉を探そうとすると「確かに」「角刈り」など、どこかが一致してしまう。辞書を引けば確実に答えにはたどり着けるだろうがその労力はいかほどか。小学生でも知っている言葉であったから日国を引くようなものではないとはいえ、「かう~」「かく~」「かす~」とこれを繰り返していく。途方もなさに目眩がしそうだ。
しかし考えることを止められない。「に」で終わらないから形容動詞ではない。「鎹アフガニスタン」と比べて発見の感動が勝っているからアクセントの位置が同じ。先頭はアではない……。いくらか考えて、「くしゃがら」という言葉が頭を過ぎった。

小説『岸部露伴は叫ばない』に収録されている北國ばらっど氏作の物語。漫画家の志士十五のもとに「禁止用語リスト」なるものが編集部から届く。大方は差別用語であったり事件に配慮してだったり、理由が書いてあったがそのうちの一つ「くしゃがら」には何も書かれていなかった。「理由を知らずに規制される」ことを嫌った十五は調査を始め、同じく漫画家の岸部露伴にも「くしゃがら」調査の協力を依頼した。一ヶ月後。十五は別人になっていた。本業そっちのけで「くしゃがら」を調べるようになり、人格が変わるほどに憔悴していた。生活を捨ててしまうほど「くしゃがら」に取り憑かれた男。今まさに「アウアイ」を調べている私と同じではないか。

「(アウアイ)アフガニスタン」にたどり着けたとして、一生その言葉を使うことはないだろうし、役に立つこともないだろう。忘れて他のことをするのが賢明だ。しかしそれでいいのか?意味は後から付いてくるものではなかったのか?知らないことを知らないままにしていていいのか?再び「アウアイ」に出会えたら凄まじい快感が得られるのではないか?

スタンドを持たない私は「くしゃがら」にも「アウアイ」にも打ち勝つことはできない。だから〈気にしない〉ことにする。こんな私にも締切があって、生活がある。たった一度きりの人生をここでおじゃんにするなんて『アウアイ』ごめんだ。

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