十月に読んだ本


日本語が亡びるとき

 水村美苗著。副題は「英語の世紀の中で」。外来語の輸入が激しすぎて日本語はもう日本語としての形を保つことはできない的なことが書かれているんだろうな、と思いつつ購入。実際には全然そんなことはなかった。豊富な知識と深い洞察から来る日本語への愛と憂い。書かれている内容はやや難しかったものの、日本語を使って表現する人であれば必読書と言えよう。
 全七章のうち第一章はアイオワ大学に招かれたときのエッセイ。第二章はパリでの講演。第三章から第六章までは英語や日本語の歴史、そして第七章では教育について書かれている。正直、第一章を読むだけでも価値がある(し、以降の章をまとめようとするとそれなりの長さと構成力が必要な)ので第一章だけ紹介したい。
 著者はアイオワ大学の「世界各国から小説家や詩人を招集し、アメリカの大学生活を味わいながらそれぞれ自分の仕事を続けてもらおうという、たいへん結構なプログラム」に参加。二台のマイクロバスで大学へ向かう途中、作家同士の雑談が始まった。出身国によっては英語よりもロシア語の方が得意、中国語の方が得意という人もいて、相手が英語での意思疎通に困っていると近くのロシア語話者が助け船を出すということもあった。「マイクロバスはユーラシア大陸の歴史を乗せてとうもろこし畑の中を走り続けた」という一文は登場するよ、というネタバレを食らっていても稲妻に打たれたような衝撃があると思う。ぜひ読んでほしい。
 そのプログラムに集まった言語は実に多様であった。例えば著者が最も親しくなったブリットという女性が使うノルウェー語。ノルウェーは400年以上デンマークの支配下にあった歴史がある。そのため、デンマークの書き言葉を由来とする「ブークモール」とノルウェーの話し言葉を由来とする「ニーノシュク」の二つが存在する。「ニーノシュク」の方がノルウェーの自然や生活を表現するには適しているという。しかし、「ニーノシュク」を読み書きできる人は全体の10数%。読者が限られてくるものの、彼女はアイデンティティのために「ニーノシュク」を選んだ。
 また、偶然も悲劇もある。モンゴル出身のダシュニムはロシア語が話せた。かつてソビエトは地盤強化のため、勢力下にある国から優秀な若者を集め、ロシア語や思想を叩き込み、それぞれの国に返して新しい指導者を作るということをしていた。しかし、毎年毎年「ロクでもない若者」が送られてくることに業を煮やし、高官の子ではなく僻地に住む若者を集めることに方向転換。すると彼らはエリート以上に「ロクでもない若者」であったため、結局エリートが集められることになった。狩人の子であったダシュニムはその数年間にすべり込んだ。ソビエト崩壊後はキリル文字での表記をラテン語アルファベット表記にしようという動きがあり、ソビエト時代に禁じられていたモンゴル文字を復活させようという動きもあったらしいが、こちらは実現性がないと言われている。
 その他、作家の活動は言論の自由、貧困とも無関係ではない。日本にいて、日本語話者に向けて、日本語で書くということ。日本を他国と相対化して見るきっかけがこの本にはある。

 ゆる言語学ラジオの視聴によって多少の知識を身につけた私は「日本語が変化したとしてもそれは変化した日本語であり、日本語が亡びたとはいえませぇ~~~ん」みたいな、からかってやろうという意志でもってこの本を手に取った。しかし著者はそんな浅はかな人ではない。

私が理解するかぎりにおいて、今の言語学の主流は、音声を中心に言葉の体系を理解することにある。それは、文字を得ていない言葉も文字を得た言葉も、まったく同じ価値をもったものとして考察するということであり、〈書き言葉〉そのものに上下があるなどという考えは逆立ちしても入り込む余地がない。言語学者にとって言葉は劣化するのではなく変化するだけである。かれらにとって言葉が「亡びる」のは、その言葉の最後の話者(より正確には最後の聞き手)が消えてしまうときでしかない。

私のような素人に毛が生えた程度の人間を実に鮮やかに牽制している。作家という立場から、いわばフィールド言語学とはまた違う「現場」から日本語という言語を照らしている。

いうまでもなく、私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの〈書き言葉〉が、あるとき空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ことにほかならない。

 著者に言わせれば日本語にも「空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ」る時代があった。そのことは第五章「日本近代文学の奇跡」に詳しい。
 英語が世界的に使われるようになって久しい。英語を使えるということがいかに強力か、英語を使えないことがいかに大きなハンデとなっているか、その中で日本語で文学をものすることとは。作家なら誰もが考えなければならないことの、足がかりとして。

クレイジー・Dの悪霊的失恋

 ジョジョの奇妙な冒険のスピンオフ。三部と四部の間の、杜王町の物語。
ジョジョではない少年漫画を読んでいる印象だった。素材はジョジョなのだけどストーリーがジョジョではないというか。解釈違いが特に顕著だったのがDIOだったと思う。

(ダービーとのポーカー戦で)
「君は子供の頃の愛称が『ダニー』だったりはしないか?」
「虫酸が走るんだよダニーなんていう品のない名前はッ」
「どうだダニエル? 君はダニーだったのか?」

 絶対気にしてない。ジョナサンへの腹いせでダニーを焼き殺したんだからダニー個人(犬)への恨みなんてないはず。吸血鬼となり、ジョナサンとの戦いがあり、100年を経て復活し、様々な方法で勢力を拡大してる中、ダニーのことまだ覚えてるか???ダービーをスゴ味で威圧するのが目的(ダービーにとって話の真偽は重要じゃない)とはいえ、100年前に腹いせに殺した犬のことを根に持ってるDIOって…。
 そんなかんじで「このキャラはこういうことしなそうだけどな~」「言わなそ~」ということが少しずつあった。

 ただ作中のホルホースのコンセプトはよかったと思う。三部でDIO側にありながらDIOに屈したことを恥じており、それは肉の芽の支配下にあった花京院とポルナレフに通じる。死後10年経っても色濃く残るDIOの面影を払拭するために、「勇気」を持ってホルホースは過去に立ち向かう。
 このコンセプトは敵スタンドとも相性がいい。見たものを記憶し、鳴き声を聞いた相手にそれを追体験させる鳥のスタンド使い、ペットサウンズ。ペットショップと同じ調教師の元にいたという設定だ。ホルホースを攻撃するDIOの「遺産」。

 少年漫画として読めば面白いけれど、そこにジョジョらしさを求めたからいけなかったのかもしれない。展開やキーパーソンの使い方は理にかなっていた。原作と同じことをしても勝てないのだから二次創作では自分の強みを生かす、というのは一つ正解だし、NHKの「岸辺露伴は動かない」も原作に忠実なばかりではない。大きなタイトルのスピンオフを書くことの難しさを改めて感じる。

まぐわう神々

 noteで公開するからしっかり最後まで読みたい、と思いながら最後まで読むことができなかった。諦めた方がよい!という決断さえしてしまった。
 タイトルが『まぐわう神々』であるから神話に登場するおかしなまぐわい、あるいは感動的なまぐわいが書かれているのだと思っていた。実際には第一章で日本神話のまぐわいを扱っただけで、第二章からは生殖器信仰についての話だった。確かに信仰されている「神」ではあるのだが「まぐわ」っているかというと……。
 さらにこの本の方向性を疑ってしまう文章が登場する。この本は一般書というより学術書の側面が強いように思う。資料や取材から読み取れることに忠実で、民俗学における貴重な資料といったかんじだ。素養がある人であれば面白く読めるのかもしれない。しかし、素養がなく面白い話を期待している素人はたった一文で大きな不安に駆り立てられたりもする。
 西洋化や都市開発によって生殖器信仰は隅に追いやられ、陽物を模した石は撤去されるなどした。しかし各地に残っているものもあり、筆者は現地へ赴き取材した記録を本に綴っている。どのような祈りが捧げられていたか。どのような背景があって忘れ去られてしまったか。実に丁寧に書かれている。そこに作者の考察こそ混じるが主観はあまりない。資料の側面が強いなぁ、と思いながら読んでいるとその件の末尾に「そこには、看板もない。ものいわず、ひっそりとたたずむ男石神社の屋根に木漏れ日があたっていた。」とある。
 いや、読者は今その文章を受け付ける脳みそじゃないんだが???
 資料を読んでいたら急にエッセイ要素をぶち込まれた。レシーブもトスもないのに「ひっそりとたたずむ男石神社の屋根に木漏れ日があたっていた」だけでカタルシスなど感じられようはずもない。自分の強みを分かっていないなという印象を抱いてしまう。
 他にも「カナマロ様」を扱う章の中で、小見出しを三つくらい隔てるともう一度「カナマロ様」の説明がされてたりする。最初に読んだって。「カナマロ」だったり「カナマラ」だったりするのは。
 そんなかんじで素人の読者が読むにはストレスが多すぎると思い断念してしまった。届くべき読者に届いていることを祈ろう。

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