「変容する連句」と潮目
言語学に「ドリフト」という言葉がある。ざっくり言うと、長い時間をかけて単語の意味が変わっていく動きのこと。「微妙」が「言葉にできないほど素晴らしい」から「良くもなく悪くもない」へと変わったように。私はこれを拡大解釈して変化全般に対して「ドリフト」と使ってしまいがちで、「さんざか」から「さざんか」、「きぬかづき」から「きぬかつぎ」などもドリフトと言ってしまう。ドリフトについての詳しいことはゆる言語学ラジオか、ご自身で著作にあたってほしい。
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堀田季何に曰く、連句においてもドリフトは見られるらしい。しかも、言語学のそれとはかなり違った形で。
専門連句人(いくつかの語は文章中に便宜上使われたものをそのまま使うことにする)を交えずに行われた文人俳諧は、徹頭徹尾「見せる句」になっていたり、ときに専門的な知識をベースにしているため第三者が理解しづらいものになっていたりする。これらは文人俳諧の弱点とされてきたが、もはや強みになっている、というのが季何氏の主張だ。さらに連句結社的な連句よりも文人俳諧的な連句が人口に膾炙したことにより、文人俳諧の俳風が主流になりつつある、と。
連句界の全体を見られるほど私に情報収集能力はないが、文人俳諧が主流になりつつあるというのはにわかに信じがたい。一方で、さまざまなルールに無頓着でいれば、連句のゲーム性を保ったままストレスがかなり軽減できる。これなら始めやすいし続けやすいというところで納得できる。連歌から俳諧へ、百韻から歌仙へと「易しく」なってきた連句の歴史を見れば、文人俳諧が席巻するのもあり得ない話ではないかもしれない。
言語学でいうドリフトというのは、変化の出発点が内側にある。日本語をまったく知らない外国人が「微妙」の意味を変えることはできないが、日本人(ないし日本語に堪能な人)が幾世代にもわたって変えることはある。ところが今起きている連句のドリフトは「外国人」が起こしてしまっているのだ。
芭蕉のようにもともと学んでいた人が起こした変化とは訳が違う。見よう見まねで始めた人々の俳風が連句界の主流になってしまっている。言うなれば日本人のサムライアクセントがアメリカで話されている英語の主流になってしまったようなものだ。信じがたいというのはこのため。専門連句人の捌きによる指導がなければどこに注意を払うべきか、その八~九割は知らないままだろう。形無しもいいところだ。
ところが彼らは活動を続けていくうちに強みとまで言われるものを身につけた。形無しだったはずの彼らが型を持ち始めた。もしかしたら芭蕉以来のパラダイムシフトを起こす可能性があるとしたら彼らの連句なのかもしれない。
季何氏は最後に「筆者の予感だが」と断りを入れて、いつかは連句の定義や範囲でさえも揺るがすパラダイムシフトに遭遇する、と綴っている。一般用語としてのパラダイムは「例、模範、典型」という意味で、芭蕉を超える人物が出てきていないという言葉が飛び出すのは、芭蕉や歌仙がパラダイムになってしまったからではないか。芭蕉の敷いたレールの上にいては芭蕉は超えられない。パラダイムを揺るがしかねない因子は文人俳諧が持っているかもしれない。
そのためには文人俳諧の強みをさらに磨き、専門連句人と文人の断絶を解消する必要がある。きっと一朝一夕にはいかないことだ。両者の流れがぶつかる潮目ができたとき、そこで私がどう動いているのか、動けるうちにそんなことが起こるのか。経験を積みながら楽しみにしていたい。