十一月に読んだ本


百合俳句アンソロジー『ひめごと』vol.1

 百合俳句と銘打っているものの、明確に百合と解釈できる句は少ない。短さゆえに使える言葉や素材は少なく、その中で俳句としての完成度を求めていけば解釈は普遍的になっていく。明確にそう読める句を作ろうとすれば短さを失ってゆく。◯◯俳句の宿命だ。以下、各作家から一句ずつ引用する。

  手を引けば息が白くて嫉妬する 雨霧あめ
 「息が白」いことと「嫉妬」の間には直接的な因果はないと思う。その人の「手を引けば息が白くて」そのあとに何かを思いだして「嫉妬する」という流れ。制御できない恋のパワーの暴走が、脈絡のなさから感じられる。

  片思いの距離感でいるラベンダー 音無早矢
 「片思いがちょうどいいんだ」みたいな勘違い。両思いになる前の、という解釈もできるが両思いになろうとしていたら「どう距離を詰めていくか」ということにリソースが割かれて「今は片思いの距離感だ」みたいな把握はできないような気がする。

  きみの声のなかを泳いで疲れたい 西希
 水に体を預ける感覚。「きみ」に心を預ける感覚。預けられるから、その次に「泳」ぐことができる。「疲れたい」という、「きみ」に飽きるまでが作中主体の射程にある。

  門限に昂ぶつてゐる秋夕焼 松本てふこ
 我が家に門限はなかったが「全力で漕がなきゃ学校に遅刻する!」みたいなスリルは中学時代に常にあった。ギリギリでいることの「昂ぶ」り。「秋夕焼」がよく映える。

  また振られてしまふのか、きやべつ切る 森舞華
 「振られてしまふ」と漠然と考えているときの感覚が、キャベツを「きやべつ」たらしめる。「、」は一呼吸置くような効果がある。自分が食べるための、自分を生かすための「きやべつ」を「切」らなければならない。

イルミナ 第6号

 ストリップアンソロジー。本当に読めて良かった。インタビューを受けた一人一人、筆を執った一人一人からストリップへの愛を感じる。ストリップへの愛情や熱量を的確に言語化できていると言おうか。私も俳句や作家について書くときはこうありたいと思った。
 特集「演目作りを支える人々」として振付師の花蓮氏、衣装屋の雨宮衣織氏へのインタビュー、音源制作者のおふじ氏の一問一答が載っている。ストリップと本気で向き合っているからこその悩み、喜び。ストリップという枠組みの中で、踊り子の魅力を最大限引き出す努力。プロフェッショナルの技術や経験は固有のものでありながら、精神性はどのジャンルにも言える普遍的なものを持つのだと改めて思い知らされる。
 「踊り子へのラブレター」は創刊号から続く企画。一人の踊り子について、一人のファンが思い出を綴ったり、複数人が対談形式でその踊り子の魅力を深掘りしたり。一冊につき三人の踊り子への「ラブレター」が掲載されている。今回特に心を打ったのはうぃんずろー氏が書いた六花ましろ氏への「ラブレター」。彼女の引退興行の最後の挨拶でのこと。

最後に声を震わせながら、しかしはっきりとした口調で言う。
「みんな、ありがとう。さようなら」
もらい泣きしか聞こえない館内に、無常に閉まっていく幕のワイヤーの音だけがカラカラと響く。
その瞬間、幕の向こう側から大きな叫び声が聞こえた。
「ウワァー!」
普段あまり感情を出さないましろさんの予想外の絶叫。その衝撃に、しばらく椅子から立ち上がれない。

 私はプロレスが好きでプロレスラーの引退興行もテレビで見たりしたことがあるが、こうはならない。花道を帰って、バックステージを去るまで、プロレスラーはプロレスラーだ。おそらくだが、幕が閉じたその瞬間、彼女と「六花ましろ」は決別してしまったのだろう。ゆっくり「六花ましろ」でなくなっていくのではなく、瞬間的に。突如現れた巨大な空虚さ。それに思わず叫んでしまったのではないか。
 凄まじい体験だ。空虚さに襲われた人間の絶叫という劇薬は、創作の中だからこそ安全に楽しめるものだ。「この絶叫は◯◯さん本人のものではない」というセーフティがあるからこそ、我々は後遺症を残すことなく現実世界に帰れる。それが現実世界に持ち込まれてしまった。エンターテイナーであれば観客のトラウマになるようなことは極力避けるだろうけれども、その絶叫をもって六花ましろの引退興行は終わった。

最後に幕の向こうから聞こえた叫びは、ストリップという夢の世界を去り、再び現実の世界に生まれた女の子の産声であったのかもしれない。(中略)六花ましろでいてくれた名前も知らない女の子、長い間どうもありがとう。向こうの世界で幸せでいてください。オレもこっちの世界で頑張るよ。

ブラを捨て旅に出よう

 150万円で世界を旅する女の人の話。これに尽きる。女性が一人で旅することの危険性、お金、世界中にある人の優しさ、自然の偉大さ、すべてが平易な文章で綴られている。世界旅行に行く気力もお金もないけど気分は味わいたいという人におすすめ。あとは中学生とか。女性が日本以外の国で出歩くのがどういうことか、苦労せずにおいしいご飯が食べられるのはどういうことか、"知っておくべき事"を比較的我が事として受け止めやすいんじゃなかろうか。加えて「体験談を一生懸命書きました!」というかんじなので読むために必要なカロリーは低めだ。決して文学的ではないが無駄がなく良い本だと思う。

 印象的だったのはイスラム教徒の青年のエピソードだ。彼は強烈な欲求を募らせているが敬虔なイスラム教徒だった。モロッコに着いた著者が右も左も分からないでいると彼は案内を買って出る。次第に親しくなり、サハラ砂漠への旅も同行することになった。これまで何度か彼に告白されたり襲われたりしたことはあったが彼は一日五回の礼拝を欠かさず行っていた。アッラーの教えに背かないだろうと、著者は安心していた。しかし、サハラ砂漠で事件は起きる。寝苦しくて目を覚ますと彼が抱きついていたのだ。陽物が当たっていることに気づいた著者は飛び起き、彼は狸寝入りをやめてじりじりと詰め寄る。まもなく押し倒され、徹底的に暴れることを決めたがそこで彼の動きはぴたりと止まった。彼は知らなかったのだ。その後何をすればいいのか。日本ではAVなどが"教科書"になっていることが問題視されているが、イスラム教圏には"教科書"が存在しない。その隙をついて著者は逃げ出す。彼もまた著者を追いかける。夜のサハラ砂漠で鬼ごっこが始まった。疲れてくると次第にシチュエーションがおかしく感じられ、二人は笑って砂の上に寝転ぶ。結局その日は何もなく彼は正気に戻った。
 翌日、彼は著者に結婚を迫る。著者はこれまでの彼の厚意に感謝を示しつつ断る。すると彼は煙草を取り出し「君をどんなに好きか証明して見せよう」と言って自らの肌に根性焼きを入れ始めた。恐ろしくなった著者は逃走。アラブの男性に思わせぶりなことはしないと固く誓ってモロッコをあとにした。ちなみにシリアでも過剰に優しくする男性に出会い、「君と旅をするために仕事を辞めてきた!」といってレバノンまで付いてこられた。彼もイスラム教徒で、案の定求婚してきたが指輪と家族写真を見せて既婚者であることを偽るとすぐに折れた。去り際に「君と結婚したくて、シリアを出るとき、両親にレバノンで結婚するって言っちゃったんだよ!」と言って泣いていた。ピュアゆえの暴走がイスラム教徒の青年にはある。

 この本は訪れた国ごとに章が分かれていて(シリア、レバノンはセット)、最後の三章には旅の魅力と過酷さが詰まっていた。スリランカではおもてなしの精神が行きすぎている家族と出会い、アルゼンチンでは強盗に散々殴られた上、旅の記録が詰まったビデオカメラを盗まれてしまう。奇跡的な出会いがあると同時に、とてつもない理不尽もある。著者に影響されてうかつに旅をしてしまう人を牽制するには十分な内容だ。著者は強盗に遭った傷を治すため最終章の舞台であるブラジルを訪れる。手ぶら生活と陽気すぎる人々に触れることでトラウマを少しずつ克服し、また絶景を眺めたことで旅へのモチベーションを取り戻した。旅による傷を癒やしたのも旅だった。

 最後に著者にとっての「ブラ」について引用しよう。

フロリダでは、目に映る全ての光景がキラキラと眩しく見えた。そして何より衝撃的だったのは、ノーブラの女性があまりに多いことだった。バストをユサユサと揺らしながら、街を毅然と歩いている彼女たちのノーブラ姿は、私にとって自由の象徴だった。海外には、日本にはない自由があるのだと感じた。

 著者の大学生時代の経験。ブラを着ける息苦しさは日本で生きることの息苦しさと通じるものがあるのかもしれない。「ブラ」の恩恵と「ノーブラ」の自由さ。バランス感覚は知ることでしか培われない。

どうして人はキスをしたくなるんだろう?

 本当に内容がない。みうらじゅん氏と宮藤官九郎氏の共著。キスをしたくなるシチュエーションや衝動を語り合い、素人の(つまり研究者でない)立場からキスというものを解き明かしていく、そういう本だと思っていた。実際には週刊プレイボーイに連載されていたものを文庫化したもので、二人のおっさんがそのときの悩みについて話すコラム以上でも以下でもない。プレイボーイの中にあれば箸休め的な、しかし読者が必要としているコラムだろう。すごく合っていると思う。私には合わなかったが。
 まぁ、表紙を見て気づくべきだったのかもしれない。

 骨太本なわけがない。面白い性体験があるわけでもないのにセックスの話をしていたり、「政治家はいつオナニーをしているんだろう」という最高の切り口で始まってその風呂敷は広げずに自分のオナニー体験で終わるというもったいないことをしていたり。二人が「みうらじゅん」である必要も「宮藤官九郎」である必要も無い。芸能界ならではみたいな特殊な性体験をしていないのだから(していたとしても語ってない)。次第になんでこれを読んでいるんだろうという気分になってくる。童貞に話の面白さで負けてるぞ。
 ただ、二人は悪くない。前述のように週刊誌の箸休めコラムだったのだ(おそらく)。箸休めとしての役割は全うしているし、私は言うなれば何も知らずに卵かけご飯品評会にやってきてしまった外国人だ。そこの文化を知らずに自分に合わないからという理由だけでこき下ろしている。論客としては不適格だ。
 一年以上連載して、連載終了したのでそれっきりです、というは寂しい。せめて本にして出して、ということなのだろう。金と時間返せと思ってはいるが軸がぶれているものを読んだときの不快感はない。

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