見出し画像

第3信 1300年前の石巻へ

 拝啓、向暑の候、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
 博物館の連載も今回で3回目となりました。今回は古代のお話です。現在、当館では、第8回企画展「牡鹿柵、桃生城と海道の蝦夷(えみし)の反乱―神亀元年から1300年、宝亀五年から1250年―」を開催中です。そこで今回は、番外編として、開催中の企画展についてご紹介します。すでに展示をご覧になった方は復習として、まだご覧になっていない方は予習として、お楽しみいただけたらうれしいです。

プロローグ

 時代は7世紀、飛鳥時代。ヤマト王権は、天皇を中心とする国家を目指し、国の範囲の確定、法制度の確立を進めて、都の造営、律令の整備が行われていきました。
 飛鳥時代の国家の範囲は、宮城県南部を流れる阿武隈川以南の地域で、仙台平野以北は蝦夷の地とされていました。国家は、「城柵(じょうさく)」と呼ばれる複数の軍事・行政の拠点を築き、柵戸(きのへ)と呼ばれる移民を送り込み、蝦夷の地の掌握に乗り出します。こうした中で、時に在地の蝦夷は抵抗し、反乱を起こしました。神亀元年・宝亀五年の2つの蝦夷の反乱にスポットを当て、律令国家の政策と蝦夷の反乱の背景をひもといてみましょう。

序章 古代牡鹿郡成立前夜

 6世紀後半から7世紀前半の集落遺跡である、東松島市の赤井遺跡と石巻市桃生町の角山遺跡は、地元で作られた土器を使いながらも、関東系土師器も少量出土しており、周辺地域と交流があったことが分かります。この時はまだ、ヤマト王権の強い影響が及んでいなかったものと考えられます。
 この他にも、特殊なお墓として注目される五松山洞窟遺跡は、海蝕(かいしょく)洞窟を利用したお墓で、その形態や埋葬された人骨・副葬品から関東地方との交流があったことがうかがえます。
 古代牡鹿郡が成立する前の石巻地方では、他地域との交流を行いながら在地集落が経営されていました。

赤井官衙遺跡出土 「海道二番」木簡 (東松島市教育委員会所蔵)… 8世紀前葉海道地方からの貢進物の荷札木簡です。赤井官衙遺跡が陸奥国海道地方に位置することを示しています。表面には「□主諸」、裏面に「海道 二番」と記されています。

第Ⅰ章 律令国家への始動と東北辺

 7世紀中頃になると、支配領域拡大の拠点として仙台平野に郡山官衙(かんが)遺跡Ⅰ期が造営されました。この遺跡からは、飛鳥で作られた畿内産土師器や多数の関東系土師器、須恵器が出土しており、国家との関係が注目されます。同じ頃、東松島市の赤井官衙遺跡や大崎市の名生館官衙遺跡には、関東から大規模に移民が送り込まれ、移民集落の外側を材木塀で囲む、城柵遺跡に改変され、国家による蝦夷支配政策が着々と進められていきました。

 7世紀末頃、中央では藤原京ができ、国家の方針に従い、仙台・大崎・石巻に置かれた城柵は、大改変されました。郡山官衙遺跡は、藤原京の基準に合わせて陸奥国府兼城柵として建て替えられました。赤井官衙遺跡や名生館官衙遺跡も真北を基準とした城柵官衙に建て直されています。

 蝦夷支配政策がどんどん進められていく中で、在地の蝦夷との間に軋轢が生じ、養老四年(720)に大崎地方で蝦夷の反乱が起こります。反乱による火災で名生館官衙遺跡や南小林遺跡の建物が焼失し、遺跡からは、火災で焼けたと思われる瓦や土器が出土しています。

桃生城出土 軒丸瓦・軒平瓦(宮城県多賀城跡調査研究所所蔵) 8世紀中葉

 同時期の神亀元年(724)、石巻地方でも海道の蝦夷が反乱を起こしています。この時期の赤井官衙遺跡の建物群は、大規模な火災に遭い、多くの建物が建て替えられています。この火災は、出土した瓦や土器の年代から、海道の蝦夷の反乱によるものとされています。

第Ⅱ章 律令国家の版図拡大―桃生城・伊治城造営と蝦夷の反乱―

 大崎・石巻地方における蝦夷の反乱を契機に、初期国府であった郡山官衙遺跡にかわり、神亀元年(724)、新しい陸奥国府として、多賀城が造営されました。多賀城創建から約40年後の天平宝字六年(762)には、多賀城碑が建立され、多賀城創建を今に伝えています。なお、多賀城碑は、今年の秋に国宝に指定されることが決まりました。

 国家は、さらに北に国の範囲を広げる方針を掲げ、天平宝字二年(758)に桃生城、神護景雲元年(767)に伊治城を造営し、移民を次々に送り込み、支配領域を広げる政策を強行しました。そのため、次第に蝦夷の不満が高まり、各地で反乱が起こるようになります。桃生城は、完成から16年後の宝亀五年(774)7月、海道の蝦夷の反乱によって大きな被害を受け、政庁などの主要施設が再建されないまま、城柵としての機能を失ってしまいました。 

第8回企画展「牡鹿柵、桃生城と海道の蝦夷の反乱」… 観覧料 ※常設展込み 一般600円、高校生300円、小中学生200円

 桃生城が襲撃されたわずか6年後の宝亀十一年(780)、伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱が起こります。8世紀後半に造営された桃生城と伊治城は、「国家と蝦夷の38年戦争」と称される長い争いの初期の舞台となったのでした。

 国家の支配領域拡大政策により、関東地方から大量の移民が送り込まれ、蝦夷支配が強行されたことにより、蝦夷たちは生業の場を失い、服属しても身分は変わらず、差別され続けます。こうした状況が徐々に軋轢(あつれき)を生み、やがて石巻地方で起きた2つの海道の蝦夷の反乱へとつながったのです。(学芸員・佐藤麻南)



石巻市博物館

〒986-0032 石巻市開成1-8(マルホンまきあーとテラス内) ☎0225-98-4831
利用案内
開館時間 9:00~17:00(最終入館16:30)
休館日 毎週月曜日(祝日の場合は翌日休館)、年末年始(12月28日~1月4日)
入館料  常設展 一般 300円、高校生 200円、小・中学生 100円 

最後まで記事をお読みいただき、ありがとうございました。皆様から頂くサポートは、さらなる有益なコンテンツの作成に役立たせていきます。引き続き、石巻日日新聞社のコンテンツをお楽しみください。