恋愛はクソだ。結婚は墓場だ。しかし、天涯孤独は生き地獄だ。

「浮気」の数だけ束縛がある。
しかし、束縛は恋愛の数だけあるだろうから、
恋愛の数だけ浮気があるともいえよう。

「恋人」の数だけ隠し事があるだろうし、
好意の数だけ後ろめたさがあるだろう。

まず、学生時代、私はモテた。
来るもの拒まず去るもの追わず、
手数は人並み以上だったから。
かとて、貞操は守っていた。
クラスメイトの噂話の中でだけ、私はモテていた。

私の彼女になった者には、私の洗礼を授けていた。
洗礼とは、煩悩を昇華させるための智水と、
反知性的で怠惰な男に相応しくない品格の付与である。

なぜあんな高尚なことを無償でしていたのか、
最近やっと理解が追い付いた。それは

「心のスキマお埋めします。ドーン!」(喪黒福造)を超えるためだ。

男女がお互いの隙間を埋めるために付き合うなんていうのは
全く人間的でない!
そんなのはただの動物がみんなしていることだ!

【あまりにフツーすぎて、それ自体が私のスキマになってしまう!】

フツーすぎる付き合いは浮気を誘う。
だから、私は一見フツーなお付き合いの下で、バプテスマを営んでいた。


思うに、「男」には二極ある。
∞:男女問わず誰とでも交われるようになること
0:誰とも肉体的に交わらないこと
である。
その中庸に、「夫婦」という金字塔が空高くそびえている。

普通、男はこの関係上でどちらかに偏るのが常である。
ゆえに、男が「夫婦」として安定することは普通でない。

したがって、夫婦としてならば、
私は「聖的営み」に浮気せずにいられるのでないか、と

そう願っている。

要するに、
1.私が聖職者をやめるためには夫婦になる必要があった
2.結婚したい時にできるだけの女性経験が必要だった
3.誰とでも唯一無二の夫婦性を築ける自信が必要だった

以上3点が、私が学生時代に”モテて”いた所以である。


さて、ここで問題が生じる

「誰とでも唯一無二の夫婦性を築く能力」という、
あられもなく矛盾した言葉の発生。

それは、神が聖母マリアにしたこと、
聖母マリアが神としたことではないか?という懸念。

「うん、そうだよ。」と、ぼくはほくそ笑む。


わたし、こうゆう人キライ (/・ω・)/


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