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疑似恋人

私の住む町には観覧車がない。
ある春の夜に、ぬるくなったシーツの中でそんな話をあなたにしたことがあった。僕の街にもないけど、せっかくだし明日乗ろうか、と言うので、翌日冬の寒気と、大陸の黄砂と、うずくような春の日差しが相混ざった晴れ間の中を電車で移動し、「観覧車のある街」に着いた。

観覧車はとても大げさな乗り物だと思う。似つかわしい場所に置かなければならず、だから私の町にはない。不安定な足場の観覧車に乗り込むと、空に身体が吸い上がるように上昇する。向き合って座り、静かに見つめ合う。飛行機まであと4時間だから、早めに移動したいか、と聞かれるので、観覧車から見える何1つ、どのパーツにも馴染みのない街並みを観ながら、うん、と答える。視線をあなたに戻すと、少しあきれたような顔をする。

「もう会いたくない、と思ったりするんでしょう」と言うので、返事に窮する。「あなたを利用してまで、何かを無理に書こうとするのは間違いだったと思う」と答える。日が傾くようにして、緩やかに観覧車が下降する。いつの間に頂上を過ぎたのか。顔の、身体の、その淵々から私への愛情が滲みだしたような人で、私は彼のことを疑似恋人として利用したのだと思う。

子どもの頃、あるショッピングセンターの1階にあったサンリオショップに1人で通ったことがあった。ハニーフィールドというくまのグッズが売っていて、時々祖母の財布から小銭を盗み、バスに乗り、ショップに行ってはモスグリーンの色の中に溶け込んだくまを見つめていた。ある日、私はこのグッズが欲しいのだと気づく。思い立ったように100円程度のビニールのショップバッグを買い、その後何食わぬ顔をして、ハニーフィールドを、ありったけのハニーフィールドをショップバックに詰め込んだ。買ったようなふりをして、優雅に外に出て、再びバスに乗る。なんてことをしてしまったんだろう、と思いながらも、ビニールバッグの中にはポーチや、ハンカチや、ペンが入っていて、良かった、「本当に」欲しかったものだ、と何故か妙に安堵した。バスを降りる頃には、ビニール袋いっぱいの幸福のおかげで罪悪感は持たなかった。きっとどうしようもなく欲しかったのだ。彼はハニーフィールドのような人で、そう伝えるべきなのか、伝えない方がいいのかわからないうちに、観覧車は地上を擦るような低さに戻る。ステップを踏むようにして私から降り、後に続くようにして彼が下りる。

観覧車が傾いているのではなく、やはり日が少し傾いたのだ、飛行機までの時間が気になって時計を見ると、「時計を気にされると寂しい」と言う。観覧車の中で大げさなキスでもするのかと思った、と冗談を言うような口調で返すと、「僕はあなたが望むなら、籍を入れたいと思っている」と私の右の手首を握りしめて、思いつめたような顔をする。柔らかな手錠がかけられるような感触に、バスの中に忘れてきた罪悪感を25年越しに思い出す。出会った頃より白髪が増えて、目が窪んだように思う。「あなたのことが好きなのか正直わからない、今すぐには答えられない」と返すと、ほどけるように手錠がゆるみ、「僕もあなたが好きなのか、あなたが書いたあの短編が好きなのか、わからない」と微笑んだ。


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