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岐阜県の戦争遺跡を巡る(東白川村)

先日、舞鶴を訪れた際に引揚記念館に立ち寄り(←記事にしています!)、そこでシベリア抑留、そもそもなぜ多くの人が移り住んだのかを知りました。そのあと、友人から岐阜県東白川村に満州開拓の碑があることを教えてもらい、この目で見てみたいと思い足を運びました。

満州開拓の碑

こちらは、岐阜県東白川村神土にあります。碑を初め、近くには平和記念館もありました。ただこちらは閉まっており、見ることはできませんでした(不定期なのだろうか…)。

東白川村から出兵していった方、開拓のために海を渡った方たちの名前があり、碑の後ろの文を読んできました。
そこですごく刺さったことのメモ↓。

引揚記念館でも学んだことですが、もともと満州にわたった理由として、人口増加による食料不足から打開策として打ち出されたものが開拓団でした。つまり、住人の方々に「侵略」の意思はない。あくまで経済不況によるそうせざるを得ない状況だったこと。しかし、戦争がはじまり、また軍の態度が悪かったこともあり、結果移住した人たちも「侵略してきた人」としてみなされてしまったこと。さらに、祖国に帰ってきたとて白い目で見られ迫害のような日々を過ごしてきたこと。

そういった、戦争だけでない人間の恐ろしさを知りました。

後ろに見えるのが東白川村平和記念館です。

この開拓団について、併せて次に触れる「乙女の碑」と共に、本もあります。

乙女の碑

こちらは岐阜県白川村の佐久良太神社の境内の中にある碑の一つです。
先ほど触れた、黒川開拓団の中でも性暴力に合われた方の慰霊碑になります。

乙女の命と引き替えに 団の自決を止める為
若き娘の人柱 捧げて守る開拓団
次に生まれるその時は 
平和の国に生まれたい
愛を育て慈しみ花咲く青春綴りたい

「乙女の碑」より

この方たちの存在や証言は、長い間表にでることはありませんでした。碑の近くに立つ説明の看板も新しく、見ると平成三十年…。本当につい最近です。
長い間、受けた苦しみを抱えて生きてきた方がいたのだと思うと、胸がつまりました…。
そして上の、とある女性の詩。戦争が起こす人間のむごさに巻き込まれ、目を背けたくなるようなことが行われていた時代に生きた、ただひたすらに平和を願った言葉に、深く心を打たれました。

こちらの右側です。

こういった事実を、どうか歴史に埋もれさせず後世に残し、二度と起きないように。願ってやみません。

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