神戸文学館(文アルタイアップ企画)「放哉ここにありき」の講演メモ
24日に神戸文学館で、わたなべじゅんこさんによる「放哉ここにありき」という講演が行われましたので、忘れないうちにメモメモ‼✍️
※諸所個人的オタ感想があります。
(なお都合で途中参加だったので、参加できたところから…)
「層雲」のこと
荻原井泉水が層雲作り始めたころの話。
・碧梧桐が岡山玉島にて俳三昧のときに、井泉水が雑誌作りたいよ~の相談をしにきた。→そんな余裕ないよとの返事だったけど否定もしない。
・結果明治44年に「層雲」創刊→そのころ、碧梧桐がずっと旅行をしてて、東京の同人の方たちが、碧梧桐の姿勢への反発が広がっていく。(ひっぱっていく人がそばにいないと、どうしても人の心って離れて行っちゃうよね。とのこと)
・大正3年の「層雲」で季題廃止→これが、完全に碧梧桐と井泉水の袂を分かつ出来事に。
・「えっ!?自分のために雑誌作るとかじゃなかったの!?」姿勢の碧梧桐 VS お金を出して編集までしてる井泉水
↑この構図で、分があるのは完全に井泉水のほう…。
・井泉水の発言として、『しかし、層雲は私の層雲である(中略)公的機関というような外的な関係に於て、層雲共同物になっていたのではないのである。』(井泉水 麻布漫録)より
ここまで言い切ってるから、すごい、かっこよ。
・碧梧桐は、〝若い人のエネルギーにのっかっていきたいんだ!!〟という思うがあったのかもしれない?
・しかも、そのあと「海紅」からも脱退することに。
井泉水と鳳車について
ここで、井師業火担当みたいな人が登場。
芹田鳳車…本名は誠治。
・層雲が始まってから、ず~~~っと投句してきた。ただし!井泉水が大正11年に一度層雲から身を引いたときは、「井師がいない層雲には出さない。」と、大正14年4月に井泉水の個人誌に戻るまで、投句しなかった。無言の抵抗…。ちゃんと戻った後は投句また始めるから…。周りも、主力がいなくなって焦ったそうな。すごい。
・井泉水の考えや言葉に影響を受け、ずっと句作を続け、歩調を合わせていた。
・井泉水は子どもの名付け親でもあった。
・略歴見るだけでも、かなり波乱万丈な人生。
井泉水と放哉について
・井師→放哉
「壁にぶつかると、角度を思い切り変えるんだね。」←これは本当にそう(笑)180度ひっくりかえすんだよ、この人。0か1かみたいなとこある。
・手紙を読みながら…。そういえば、放哉が小浜にいたときに北但馬の地震体験していた(前々回の碧梧桐の話題の中で、この地震について話があった。)→そして、いろんな人にすぐ手紙出してた。
・放哉は手紙のなかで、素直~~~~~に「寂しいよ」と言えるのすごいよね。などの話。個人的にこういった手紙で素を出してくるのが本当にツボ。特に、住田蓮車にはめちゃくちゃ弱いところをさらけ出している(⇔井泉水にも情けないところさらけ出しながらも、どこか改まった感じになっている?)
その他いろいろ
・須磨寺の放哉の句碑の字は、井泉水が書いたもの(右下に名前あるよ)
・須磨寺の昔の写真をスライドで見る。
今回ももっと聞いていたい、濃い時間になりました…!!ありがとうございました!!
☆おまけ☆神戸須磨シーワールド☆
放哉先生って須磨海岸とか来てたのかな…、と行きたかったのですが、海はあまりにも灼熱地獄だったので水族館にきました。
※事前にネットでチケット買うことをお勧めします!!日によって違うのかもしれませんが、当日券は13時から発売でした。またQRコードでスムーズに入れました!!
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