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ともにいる人たち  

 何年か前にここnoteに書いた「ぼんの話」というエッセイを読んでくださった方がいらっしゃったようで、最近また何人かの方から「スキ」をいただいた。
 ちいさな静かな反響が嬉しかった。

 ぼんというのはぼくが若いころ番頭をしていたレコード店によく遊びに来ていた小6の男の子のことで、エッセイには彼が道を歩いていて飲酒運転の軽トラに後ろから跳ね飛ばされて亡くなってしまったこと、そのあと夢の中で逢いに来てくれた、というよりも夢を介してぼくを不思議な場所に招いてくれた話を書いた。

 ぼんが亡くなったのは現実なのだけど、夢の中での再会はあくまでも夢であってその夢に心理的学な説明をつけることも難しくないと思う。所詮夢ではないか、と言われてしまう話かもしれない。

 けれどもぼくは、同じ夢でもただの夢ではない特別な夢というのもきっとあるのではないか、あるいは特別な存在が夢の中の体験というカタチを取らせるのではないかと思うようになった。

 人は死んだらどうなるか何処へ行くかということは、宗教や哲学や自然科学などそれぞれの立場からの意見はあると思うけれど、ぼくのような平凡な人間でも昨年末に父親が他界したことで強くした思いがある。

 〈人はこの世を去ったあとも残った人の心の中に生きている〉
 ということだ。
 なーんだ、と思われるかもしれないけれど、それがもっとも強く実感したことなのである。

 たとえば、いままでならば何かを考えたり決断するときに、父ならどう考えるだろうどうするだろうと考えることはほとんどなかった。
意見が衝突することも少なくなかったからわざわざ意見を訊くこともなかった。
 正しいか正しくないか、どちらの選択がいいかは立場や考え方によって違う。だから父の言いそうなことは先にわかっていたし、それがぼくを想ってのことであっても重く感じることがあった。

 けれども不思議なことに、父が他界してからというもの「親父ならどう言うだろう」とふと考えている自分に気づくようになった。
父の言いそうな意見を素直に受け入れている(意見に従うという意味ではなく)自分に驚いた。
 そのうちに、父ならばどう考えるだろうと意識しなくても「こういう考え方もある」という、いままでの自分ならばなかった発想も選択肢として加わるようになった。
 それが意図的な意識改革ではなく、ごく自然な変化だということが不思議だった。
 
 父の一部がぼくの中に息づいている。そのことが実感としてあった。
そのことでぼくという人間がアップデートされたような感覚だった。なんとなく誇らしくて嬉しかった。

 きっとあのときのぼんの素直さも優しさもぼくの中に息づいていて、ぼくを素直な優しい人間としての方向へいまも一生懸命引っ張っていてくれるのだろう。

 人はこの世からいなくなってもその人を大切に想う人といつも一緒にいる、というのはそういうことだと思う。

 旅立って行った大切な人たちの顔を思い浮かべながら。

 

 

 
 

 

 

 
 

 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
  

 
 

 
 
 

 

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