通り過ぎるもの
フォーク・シンガーのAさんは、60年代半ばから90年代にかけて全国を回りながらアコースティク・ギターの弾き語りコンサートを行っていた。
コンサートはイベント会社主催のものに加えて地方の青年団やファン有志の企画によるものも多く、会場もライブ・ハウスやホールだけでなく、喫茶店やギャラリー、地方のイベントや公民館など多岐にわたった。
ジョイント・コンサート等は関係者や同業者たちに同行することもあったが、大抵はマネージャーもボウヤ(ローディー)もいないひとり旅だった。
Aさんは可能な限り電車ではなく自分の車で会場に出向いた。車ならばなにかと融通が利くし、いざとなれば車中泊もできるからである。当時のAさんの場合、コンサートにおける交通費や宿泊費それらの手配の有無はまさしくケース・バイ・ケースだったという。
四十数年前のある夏のこと。
Aさんはコンサートに訪れた田舎町で生涯忘れられない経験をしたという。
コンサートの主催者はその町の青年団の若者たちだった。
コンサートを盛況のうちに終え、打ち上げをしている席に電話が入った。その夜Aさんを泊める予定だったB君の家からで、どうしても都合が悪くなったとのことだった。
他の青年団のどの家も急にお客を泊めるのは無理だという。青年団のひとりがすぐに駅前に一軒だけあるビジネス・ホテルに電話をしてくれたが、生憎満室とのことだった。
Aさんはしきりに恐縮するB君たちに、どこか適当な場所を探して車で寝るか近場のモーテルに泊まるから気にしないで欲しい、と言った。
モーテルならば二十分ほど走った山間に一軒あるという。
ならば、とAさんはそこに泊まることにした。
恐縮した青年団の皆がお金を出し合って、ギャラとは別にモーテルの宿泊代としては充分すぎる金額を手渡してくれたという。
Aさんは教わった通りに山道に入りモーテルに着いた。
それっぽいネオン・サインも照明もなく、どこかの飲み屋のような白い小さな電飾看板が入り口にひとつ灯っているだけの、一見して気分が萎えるような陰鬱な雰囲気を漂わせたモーテルだった。
木造平屋建ての横一列に並んだ客室は、七、八部屋ほどあるだろうか。
地味な乗用車が二台ほど停まっていた。
フロントで鍵を受け取り、鍵の番号の部屋に向う。客が部屋を選ぶシステムではないようだった。各部屋ごとに異なる趣向が施されているわけでもなくどの部屋の作りも同じなのだろう。
部屋は狭く、薄暗い和室の中央に白い布団が敷かれていた。
十四型の小さなブラウン管テレビが部屋の隅にぽつんと置いてある。
安っぽいプリント合板が張られた壁は見掛けよりもさらに薄いのだろう。
隣の部屋からテレビの音なのか人の声なのか判らない話し声がぼそぼそと聞こえる。
これではラブ・ホテルとしての体を成していない。繁盛もしないはずだとAさんは思った。
Aさんはシャワーだけでも浴びて早々に寝てしまおうと浴室を覗いた。
そこにあったのは文化住宅のようなごく普通の狭い浴室だった。
湯船は空だ。どうやら自分で水を張り、湯船の横に設置されている剥き出しのガス風呂釜に火を点けるようだ。シャワー設備など影も形もない。
〈今の季節は15分で沸きます〉とマジックで書いた湿気でぶよぶよになった紙が壁に貼ってあった。
「なんだよこれ」Aさんは苦笑すると、自分で沸かしてまで風呂に入るのを面倒に思い、さっきB君らが持たせてくれた缶ビールを飲んで寝ることにした。
一時間ほど眠った頃だろうか。
なぜか、すーっと眠りが浅くなるのが自分で判ったという。
その瞬間。
ドスン、と重いペットボトルを床に落としたような鈍い音が響いた。
驚いて目を覚ましたAさんは思わず音が聞こえた方を見やる。
何者かがしゃがみ込んでいる影が見えた。
泥棒だ。
Aさんは咄嗟にそう思った。
金は盗られるほど持ってはいないが、まだ月賦が残っているギターを盗られてはたまらない。
「泥棒!」と叫ぼうとした……が、どうしたことか声が出ない。
ならば蹴飛ばしてやろうと思ったが、こんどは躰がまったく動かない。
なにが起きているか判らず混乱しながらも、盗られてなるものかとAさんは影を睨みつけた。
するとその影が、何かを脇に抱え上げるようにしてすっと立ち上がった。
頭も動かせないAさんは目だけでその姿を追い、やがて息をのんだ。
―――全裸の女。
だが、視界が限られていて足元から肩のあたりまでしか見えない。
全裸の女は、足元に寝ているAさんを意に介すようすもなく、ゆっくりと歩き始めた。すり足のような静かな歩き方だった。
そしてそのまま、Aさんの腹の上を通り過ぎた。
踏まれているはずなのに重さを感じない。
そのときAさんは、女が生きた人間ではないと確信したという。
女が腹の上を通り過ぎてようやく、後ろ姿ではあるが全身が目に入った。
白い臀部が艶めかしく見えたのは、この期に及んで、というべき男の哀しさであろうか。
しかし、次の瞬間、行き場を失い逆流した絶叫がAさんの躰を震わせた。
―――首から上が無い。
そして、その細い腕に抱えたものこそが、恐らく……。
彼女の自身の頭。
生首から濡れたような黒い髪が垂れている。
いま女が抱えている生首と目が合ったら、俺はきっと永遠に正気を失うだろう。
「頼むから早くどこかに行ってくれ」
Aさんは震えながらそう祈るしかなかった。
全裸の女は、立ち止まることも振り向くこともなく、そのまま壁に吸い込まれるように消えたという。
時間にして数十秒の出来事。
壁の向こうは浴室であった。
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