誰かに言葉を贈るということ。

 ぼくがクルマの免許を取ったころ、滋賀の若者は運転免許を取ったらまず琵琶湖一周をし次に福井県の東尋坊まで遠出するという、現在ではテレビの娯楽番組のネタとして揶揄されるしかないようなことが、ある種の通過儀礼のように行われていた。
 とはいえ元々特別な謂れがあるわけではなく、誰もがなんとなく思いついて誰もが実際にやってみる行為、だったに過ぎない。初心者には景色も楽しめて適度な練習になる良い行程ということだったのだろう。
 
 日本海に臨む越前の町までドライブに行き、漁港のある集落の小さな土産屋に立ち寄ったときのこと。
 その朝に獲れたばかりの魚介類や干物が並んだ小ぢんまりとした店に、五十がらみのおばさんがひとり店番をしていた。
 当時はその手のどんな店にも地名を印刷したサーフボード型のキーホルダー程度の物は売っていたものだが、その店には初遠出の記念になるような類の物は何もなかった。
 ぼくはまだ二十歳そこそこで海産物のことはよくわからないから、店のおばさんに両親の年代が喜びそうなものを見繕ってもらい小遣いで買える分量をお土産として購めることにした。
 代金を支払う段になって、ぼくの顔をじっと見つめたおばさんが、
「おにいさん、あなた優しそうな顔をしてるねぇ」
 と突然言った。
 初対面の人から面と向かってそんなことを言われたことがなかったから、驚きと照れ臭さでぼくは咄嗟に
「そんなことないで」
 と、言ってしまった。ぶっきら棒に聞こえたかもしれない、とすぐに後悔したが、おばさんは気にしていないようすで、レジの近くにあった干物を会計の済んだ袋にオマケしてくれながら「いや、ほんとに」と微笑んだのだった。
 おばさんの顔は記憶の彼方に霞んではいるが、その場面と、おばさんの言葉はこうして30年経ったいまでも憶えている。
 そしていま思えば、その言葉はその後のぼくの人生において、ある時には勇気の後押しとして、ある時にはブレーキとして無意識に作用してきたような気がするのだ。
 うまく言えないけれど、おばさんのあのひと言によってぼくの心の隅に何かが芽生え、漠然とした想いではあるがその何かを裏切ってはいけないという一点が、細く長くぼくの心に根づいてきたのかもしれない。

 インドにひとり旅をした時、ある地のスワミジ(僧侶)のそばでしばらく過ごしたことがある。ある日スワミジから
「あいさつや感謝の言葉はもちろんだけれど、人の良いと思うところは、気取ったり照れたりせずに素直に称賛しなさい」
 と教えていただいた。
「好きな人には、好意をきちんと伝えなさい」とも。
 人間どうし明日はどうなるか分からないのだから伝えられるうちに伝えなさいということでもあり、想いはある程度言葉にしなければ伝わらない、ということでもあり、そう言われて嫌な気持ちになる人間はいない、ということでもあった。
 それは教義というよりも、人生の大先輩としてのスワミジからの大切なアドバイスだったのだと思う。

 あなたは優しい人ですね。
 あなたは力持ちですね。
 あなたはよい声をしていますね。
 あなたは他人の気持ちを大切にする人ですね。
 あなたは勇気のある人ですね。
 あなたは綺麗な目をしていますね。
 あなたは人知れずこつこつと頑張る人ですね。
 あなたはとてもよく気がつく人ですね。
 あなたはいつもにこにこしていますね。

 ……だから私はあなたが好きです。と伝えるのです、と。 

 スワミジにそう教えられたとき、遠い記憶の中の越前のおばさんがふと頭に浮かんだ。
 そしておばさんはあの時ぼくに一生モノのオマケ(贈り物)をくれたのだということに思い至った刹那、ぼくはインドの砂塵の中で、潮の香りをかいだような気がしたのだった。

 

 

 


 

 
 
 
 

 
 
 
 

 

 
 

 

 

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