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早朝テレビ   にぎやかな静寂

ここ一年ほど、朝早く目が覚めるようになった。目が覚めたならすっと起きて何か生産的なことをすればいいのだけれど、まだぼくも年寄りの世界ではひよっコなので、うとうとしながらまた寝てしまうことも多い。
とりあえずといった感じでテレビを点けてみると、たいていは通販番組をやっている。こんな時間にいったい誰がテレビなんか見るんや、とボヤキながらテレビを見ている自分がいる。
なるほど扱っている商品は健康食品やサプリ、さまざまな補助具、簡単スマホ、といった高齢者相手の商品が圧倒的に多い。
だからなのか、だけどなのか、まだ購入には至っていない。

週末の深夜から早朝にかけてはドキュメンタリーや対談系の番組の再放送をしていることがあって、少し寝ぼけたアタマと心に染み入るような良質な番組に当たるとすごく得した気持ちになる。

その朝、途中から見始めた番組は、ゲストと聞き手(アナウンサー)ふたりが向かい合う形の静かな番組だった。
ゲストは老人介護の仕事をしながら劇団を立ち上げたという優しそうな顔をした若い男性だった。彼は学生のときに演劇と出逢い、裏方や演者の活動をするなかでそれまでの引込み思案な性格を克服したのだという。
やがて彼は老人ホームの介護職員として働き始めるのだが、学生時代に培った『演技力』が意外な役に立つことに気づく。
毎日顔を合わせているにもかかわらず、度々彼を誰か別の人物(何かの商売屋さん)と間違える認知症を患った老婦人がおられるという。
そういうとき彼は「違いますよ、ぼくは職員の〇〇ですよ」といわずに、魚屋さんや八百屋さんとして受け答えをするのだという。つまり演技でその都度老婦人(の頭の中に)に見えている人に成りきるのである。すると老婦人はとても楽しそうに会話をし、その日は精神的にも安定するという。
認知症とはいえ周囲から「違う」「違う」といわれつづけると、混乱し不安になり、だんだん無口になっていってしまうらしい。
いざ家庭(個人)で認知症の人と接するときに、そうした方法がどこまで有効かはわからないけれど『正解』『正しいこと』『間違いは正すべき』はちょっと脇に置いておくという考え方も大切なのかもしれないと、深く考えさせられた。

それからもうひとつ。
彼は「認知症の人が、人の区別があやふやになったり、物忘れが酷くなったりしても、その人の根っこの部分(つまり優しさや愛情といったもの)までは忘れたり、消えてしまったりしない」ということを力を込めていった。
ある日、ひとりの老婦人がフロアを畳んだ雨傘で掃いていたのだという。
ゴミが落ちているのを見て掃除してあげようと思ったのであろう。スタッフさんは忙しそうだから私が代わりに、という気持ちもあったに違いない、と彼はいう。
とはいうものの、実際に目にすると衝撃的な光景だとも思う。たとえばそれが身内ならばなおさらではないだろうか。
しかし彼はいう。
親切な彼女は『箒と傘を間違えただけなのです』
彼はそういうとき「ありがとうございます。その箒少し傷んでいるので、こちらの新しいのを使ってください」と本物の箒を渡すか「ぼくの仕事、いま終わりましたので続きは僕がします。ありがとうございます」と掃き掃除を引き取るのだという。
またあるときは、別の老婦人が、脚の悪い人の手を引いてどこかに行こうとしていた。その老婦人は自分の脚も覚束ないことを忘れて、親切心から困っている人を助けようとしていたのである。いうまでもなく、ふたりして転倒して周囲に要らぬ面倒をかけようなどと思ってはいない。
だから彼は「ありがとうございます。ぼくが替わります」という。
ぼくは彼の話を聞いていて、目から鱗が落ちるような気がした。そして反省の思いでいっぱいになった。
ぼくの母はいまは父の看護で気を張っているが、年相応に頭の切れが悪くなってきている。いま、あるいは将来的にと想像してみると、もしも自分の母が雨傘で廊下を掃いていたら「それ傘やで。しっかりしてや。大丈夫か」といってしまうと思う。大げさに嘆くそぶりをしてしまうかもしれない。その言動は、ただ追い詰めるだけだとアタマではわかっていても、である。
もし母が覚束ない脚でだれかの手を引いて歩いていたら「危ないからやめて。ふたりとも怪我したらどうするんや」といってしまうと思う。
おそらくその状況で「ありがとう」という言葉は出ないだろう、と思った。
そして、ぼくは自分がいかに出来ていない人間なのかを思い知った。

番組が終わっても、その日一日余韻が残った。
気がつけば若い介護職員兼座長の言葉の数々を反芻していた。

実際に経験された方、現在当事者でおられる方々には、現実はそんな甘いものではない、そのような悠長なことをいってられない、と仰る方もきっといらっしゃるだろうと思う。家族、当人の安全を守る、という面に関してはシビアにそうであろう。
けれども、ぼくは、ものすごく深く大切なことを、いま知っておかなくて何時知るんだ、というタイミングで学べた気がする。将来、というか、今日から明日から、この話を聞いておくのとおかないのでは違うと思うのだ。

ということで、目に見えない誰か(チカラ)が用意してくれたのかもしれない早朝の偶然に心から感謝している。

あとで調べてもそんな番組はなかった、なんてことになればまた怪談ネタが増えてありがたいけれど、今回はそんなこともないだろう。


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