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水のしらせ。       随筆怪談

ぼくの職場は古い校舎がほぼそのままの形で作業所となっている。このことは過去に何度かツイッターなどに書いた。
山間に見るような旧い分校よりもずっと小さな木造二階建ての、ぼくたちが工場(こうば)と呼ぶその建物では、無人であるはずの二階で複数の人間が歩く音がしたり、作業をしていると背後に人の気配を感じることがある。
これらのことについては従業員全員が首肯するところだが、長年の慣れもあってか、さほど怖いと感じることはない。女学校の校舎だったということも心理的に作用しているのかもしれない。 

職場では作業工程によってほぼ全員(といっても数人だが)がひとかたまりに作業場所を移動する。
昨日は一階で行う工程だった。
二階では、数年前に定年を迎えいまは嘱託として働いている年長の先輩田中さん(仮名)がひとりで別の作業をしていた。

午前十時半を回った頃だった。

突然、ドボドボドボッと大きな水音が響いた。
「なんやっ?」といいながら、全員が手元から目を離す。

あわてて工場内を見回すと、天井の一部からまるでバケツの底を抜いたような勢いで水が落ちていた。
「何が起きたんや。水漏れか」
しかしぼくたちがいるのは一階である。
たとえ二階でどれだけ大量の水をぶちまけたとしても、木製の床をすり抜けてこれだけの勢いで水が落ちてくるとは物理的に考えられない。
工場の天井を這う冷暖房用のパイプのつなぎ目が外れたのか。

水は大きな音を立てて落ち、およそ三秒でぴたっと止まった。
パイプの排水口を素早く全開にしてすぐに閉じた、そんな感じだった。

すぐにその箇所の下からパイプを見上げたが、繋ぎ目が外れたようすも、亀裂もなかった。いうまでもなくその箇所に排水口など無い。

「二階と違うか」
「トイレか」

工場には一階にも二階にもトイレがある。男女兼用の小さな個室で、和式の便座が一段高く設えてある昔ながらのタイプである。
位置的に考えるとトイレのような気もするが、トイレの水道管が破裂したにしても違和感が消えない。水の勢いが理屈に合わない。

とにかく二階に駆け上がった。

―――トイレの中で、田中さんが倒れていた。

詳細は伏せるが、大声を出して助けを呼ぶことも、どこかを叩いて報せることもできなかったようすであった。

ぼくたちはすぐに救急車を呼び、田中さんは病院に運ばれた。

脳出血だった。

突然の水漏れ騒ぎがなければ、誰も二階には行かなかっただろう。
下手をすれば夕方の終業時までトイレの中で倒れている田中さんに誰も気づかない可能性があった。
そう考えるとぞっとする。

その後調べたところ、二階のトイレの水回りに異常はなく、冷暖房の配管を含め周辺の装置に何の異変も見られなかった。
あの水漏れがどこからどういった経緯で噴出した水だったのか、どうしてもわからない。

そして、一階の床にできた水溜りは、誰が拭いたでもなく、いつの間にか乾いて消えていた。

田中さんは一命をとりとめ、病室の人となった。








 





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