怖叫話音

離れない。

30年数年前にライブ・ハウスのスタッフをしていたというKさんは、ひょろっとした長身に温厚そうな笑顔が印象的な男性である。

当時、Kさんにはそんな見た目に反する特技があった。

M社に代表されるギター・アンプの大きなスピーカー・キャビネット(以下キャビネット)をひとりで持ち、ライブ・ハウスのある地下フロアへの階段を上り下りしていたのだという。

キャビネットは、縦横およそ80センチ奥行きは40センチ弱あり、内部に12インチのスピーカーが4機搭載されている。
重さは30数キロだが、左右の側面にある凹型の持ち部分もひとりで持つには位置的に役に立たず、サイズといい形状といいなんとも踏ん張りの効かない難物であった。
Kさんは底面の両端を持ち「えいやっ」と一気に抱え上げる。そして左右どちらかの腿の付け根に裏面と底面の角をのせ、自身の腹、胸、頬で支えるのである。
「コツですね。腕でなく、腰で持つんです」
とKさんはいう。

女性に人気のある某バンドが、ツアーでKさんのいるライブ・ハウスに出演したときのこと。
バンドが持参したキャビネットを抱えて、いつものように地下への階段を下りていると、二の腕の内側にふわりとした何かが触れたような気がした。
ちょうど腕と横腹のあいだにできた三角形の空間である。

「…………して…」

女性の、か細い声が聞こえた。

えっ?

Kさんは、頬でキャビネットを支えるために真左を向いていた首を、ゆっくりと正面に戻した。

そして、視線だけを右側の脇の下あたりに下す。

黒と肌色のつぶれたドッジボールのようなものが目に入った。

なんだ? いつ引っついた?

Kさんはそう思いながら目を凝らした。
潰れたドッジボールに見えたものは、

―――女の顔だった。

顔の上半分、つまり頭から鼻の下あたりまでが、まるで水中から水面に顔を出したときのように、キャビネットの中から現れようとしていたのである。

前髪が真っ直ぐに切り揃えられた若い女性だった。

Kさんが息をのむのとほぼ同時に、淋しさ、悲しみ、愛情、憎しみ、そうした感情を綯い交ぜにしたような女の視線が、Kさんの視線を捉えた。

「うわっ、目が合った」

Kさんは思わずぎゅっと目を瞑った。

しかし、何があってもキャビネットを階段から落とすわけにはいかない。

Kさんは必死の思いで残りの階段を下りた。

階段を下り切り、やっとの思いでキャビネットを床に下す。

いつの間にか、女の顔は消えていたという。











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