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Mさんからの便り    随筆

郵便受けに一通の茶封筒が届いていた。封筒の左半分にはいくぶん年月を経た印象の記念切手が何枚も貼られている。
封筒の中にはA5サイズの薄い冊子。
地元のご年配の方々による文芸サークルの同人誌であった。
冊子のちょうど中程に栞代わりの一筆箋がはさまっていた。
その同人誌を送ってくださったMさんの随筆が掲載されたページだった。
Mさんは元小学校か中学校の先生で、以前ぼくと一緒に地元の文芸協会の理事をされていた。現在のお歳は八十代後半だろうか。いかにも優しい先生といった雰囲気の女性だった。
一筆箋には、随筆のなかにぼくが登場すると書いてあり、私にとって生涯忘れられない嬉しいできことだったいまでも感謝している、そのことを随筆に書いたので送らせてもらうということが綴られていた。

随筆には、Mさんが長く務められた文芸協会の理事をのちに退かれる切っ掛けとなった日の出来事が書かれてあった。本文によれば十年も前のことだ。
もうそんなになるのか、とあらためて思った。

読み進むうちに随筆とぼく自身の記憶が重なり、あの日の情景が徐々に鮮明になっていった。

その日、文芸協会の理事の会議があった。
Mさんは会議に間に合うように余裕をもって自転車で家を出た。
ところが、二十分足らずの会場までの道のりの途中で迷ってしまう。
いままで何百回と通った道なのに、自分がいま走っている道が正しいのか、さらには自分がいまどこにいるのかもわからなくなったのである。
焦れば焦るほど頭が混乱し、間違った方角に進んでしまう。
はたしてMさんは会議に遅刻をしてしまった。
Mさんは自分の脳みそがどうかなってしまったのか、認知症とはこんな風に突発的に発症するものなのかとパニックになった。
会議の間もそのことで頭が一杯だったMさんは、意を決して自分がこの場所までスムーズに来られなかったことを皆に正直に話した。そして、このままではいつか預かった原稿を無くすなどして皆さんに迷惑を掛けてしまうだろう、と。

Mさんは心底困惑した、さらに言えば血の気の引いた顔をしていた。
皆はどういう反応をすればいいのか判らず、誰もが言葉を無くしたままMさんの告白を聞いた。
Mさんは自分の発言を終えると力なく腰を下ろした。

その後ぼくが発言する順番が来た。ぼくは開口一番
「私もよく道を間違えます」
と言った。(らしい)
理事会最年少のぼくは、Mさんの告白に対して自身の意見を言うタイミングでも立場でもなかった。けれどその時の自身の気持ちを思い返すと、Mさんの告白は衝撃的な内容だったとはいえ、皆が彼女と同調して狼狽えるのではなく「大丈夫」と誰かが少しでも早く言ってあげなければ、と思ったのだった。

はたしてMさんは、息子ほどの年のぼくのそのひと言にとても救われた、と随筆に書いてくださったのだった。

随筆は〈この文章を書いてから十余年の歳月が経つ、現在の私は同人の仲間に支えられて何とか原稿用紙に向かえることを倖せに思っている〉
と結ばれていた。
今回結びの部分を現在のMさんの手によって書き足されたのであれば、本文中の経過した年月なども同じく訂正が成されたのだろう。ならば読みながら首をかしげた箇所があったことも合点がいく。それらは残念ながら幾分不確かなものであったからだ。

もしかしたら今回新たに原稿用紙五枚ほどの随筆を書くことがしんどくなって、以前に書いておいた原稿を出されたのかもしれないが、Mさんはいつか必ずあの日の思いをぼくに伝えようと考えていてくださったに違いない。

おそらくMさんはいまそういう風に、ひとつひとつ、しっかりと丁寧に、やり残したことを片づけておられるのだろう。

という書き方をすると、いま流行の終活という言葉が浮かんできそうだが、ならば終活とは諦めや後退ではなく、いまの自分に合う速度と歩幅に整えながら前進することではないだろうか。

封筒に貼られた記念切手は少し色褪せている。
きっといままで大切に残しておかれたのだろう。
中でもひと際目立つ「沖縄国際海洋博覧会記念」の切手が気になってネットで調べてみた。昭和五十年発行とあった。














 
 
 

 
  
  
 
 

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