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親父が逝ってぼちっと半年(1) 「にぎやかな静寂」

 あれからいろんなことを考えたり思い返したりした。ぼくはひとつのことを案外しつこく考えるたちなので、いつの間にか「人が死ぬとはどういうことなのか」などと到底手に負えそうにもないサイズにまで膨らんでしまった問いをゆっくりと自分なりに考えたりしている。
 そして、思いついたときにそうしたことについてぼちぼち書きたいと思う。こんな話、誰か読んでくれるのかしらと思いながらであるけれど……。
  
 CDやレコードをたくさん所有している人なら「いま持っているCDなりレコードをすべて聴くには何日かかるか」ということを一度くらいは考えたり友人と話したりしたことがあると思う。
 仮に1500枚のアルバムを持っているとしたら、一枚あたりおよそ40分と考えて、60000分つまり1000時間かかる。24時間ぶっ通して聴くわけにもいかないから一日に12時間として計算してみると83日ちょっと。つまりざっくりと3か月近くかかることになる。

 3か月といえば、親父が末期がんで病院(最後は緩和病棟)にお世話になっていた期間とほぼ同じである。

 もし親父が1500枚のCDを所有していたのなら、その3カ月間1枚ずつ順番に聴かせてあげたかったと思う。
 なぜなら最後の3か月間は音楽を聴く(それを望むのであれば、だが)くらいしかする(できる)ことがなかったのである。

 親父は1500枚のCDを持っていなかったから、そのほとんどを静かに病室の天井を見つめて過ごした。
 
 家族の話しかける声は聞こえてはいただろうが、そのうちに「ああ」とか「うう」とか簡単な返答しか出来なくなっていった。

 ある日、ぼくは親父に訊いた。
「毎日、何を考えてるん?」
 親父はベッドに仰向けに寝かされた状態で動けずにいる。
 つまりその状態では、眠っているか、ぼーっとしているか、何かを思っている(考えている)しかないのである。
 親父は答えない。
 そもそも「あんなこと、こんなこと」と具体的な返答を期待しての質問でもなかった。そのどこか不躾な言葉を投げかけることで、ぼくはベッドの父との距離を縮めようとしたのだと思う。

「昔から、順番にひとつずついろんなことを思い出してるん? 自分が子どものころのこととか……。若いころのこととか……。ぼくら(ぼくには妹がいる)が生まれたときとか、〇〇(孫、つまりぼくの子ども)とよう遊んでくれたこととか……」

 ぼくがそう言うと、親父は目をぎゅっと瞑ってはまた開くということを繰り返しはじめた。 

 そのとき親父は、抗癌剤ではなく痛み止めを主とした点滴を続けていたが、身体の機能も弱ってくるから排尿が困難になってきていた。そうなれば出口が無い器に水分を投入し続けていることになる。そのせいか手足は倍ほどに浮腫んでいた。
 仰向けに寝たままで腕も動かせないから、たとえ鼻が痒くても掻くことすらできない状態であった。

―――そうか、泣いているのか。
 健康な人のように流れ出すほどの涙ではないけれど、親父は泣いていた。
 そして、いま自分の涙さえ拭えないでいる。
 ぼくはタオル地のハンカチで親父の目尻を拭った。
 
 そのとき、どんな感情よりも先に、ぼくの目からも壊れた蛇口のようにとめどなく涙が流れ出た。
 生まれて初めての不思議な感覚だった。
 その涙に半ば戸惑いながら「ああ、親父は本当にもうすぐ死ぬのだな」と思った。

 電気工事士として若い時分から身体を使って働き続けてきた親父は、商売を畳んでからも何かしら身体を動かすことを愉しみとしていた。
 その父が、最後の最後に自分の手さえ動かせずにじっと仰向けに寝ていることしか許されずにいる。
 これはいったい何なんだ。
 ぼくは誰に、どこに向かって、怒っていいのかわからないまま無性に腹を立てていた。 

 クリスマスイブの前日の夜、親父は母とぼくの家族そして妹家族に見守られるなかで逝った。
 それまで意識がなく軽い鼾か寝息だけだったのに、親父は息を引き取る間際に突然「あーっ、あーっ」と二回声を出した。

 皆で「お別れの挨拶やったんやね」「ありがとう」って言うてくれはったんかな、と話した。

 親父はベッドの上で八十数年の来し方をどのくらい思い出したのだろう。
 三か月ならば、親父の人生における細やかな楽しかったこと嬉しかったことだけをひとつひとつ辿るだけで時間切れになったのではないだろうか。
 そうであって欲しいと思う。
 
 思えば、ぼくが親父が泣いた顔を見たのは、あの日が最初で最後、一度切りだった。


 
 

 

 


 
  

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