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にぎやかな静寂 「午後10時15分の。」(再掲)

 ここ数週間、noteにあたらしいエッセイをupするでもなく、ただ書き散らかした「下書き」の数ばかりが増えている。
 読んでくださる方々に少しでも役に立つものを、あるいは読後に何か残るものをと意気込むほどに筆が止まる。そもそも実力も経験も乏しい人間が、メッセージめいたものを発信しようと考えること自体がおこがましいのであろう。

 題名を「午後10時15分の憂鬱」としようと思い、やがて「憂鬱」ではなく「絶望」なのではないか、と考えた。
 ぼくの住む地方のパチンコ店の閉店時間は午後11時である。10時45分に遊戯は終了となる。それ以降に大当たりを引いても無効となる。
 パチンコのことをよく知らない方もいらっしゃるだろうし、パチンコあるいはギャンブルの話題に眉をひそめられる方もおられるかもしれないけれどご容赦願いたい。

 若い頃はパチンコで勝っても負けてもせいぜい2、3千円だった。昔のパチンコといえば、紙袋にどっさりとお菓子や缶詰、タバコなどを詰め込んで帰るご満悦の親父さん、というイメージを憶えておられる方もいらっしゃるだろう。ぼくが初めて行った頃の台はいまのように自動ではなく、指でレバーを弾いて玉を打っていた。

 若い頃に比べるとパチンコに行くことはかなり少なくなった。(注、’16現在は卒業した)経済的にも時間的にも行けなくなったと言ってもいい。
 現在のパチンコは、台の中央に表示される三桁の数字がぞろ目で揃い、さらに運よく大当たりを連続で得られる状態を引き当てれば、十数万円勝つことも、反対に一日調子が出ないまま終われば、十万円以上負けることも珍しくない。
 大抵の客は日常的にそれほどつぎ込むことはないと思うが、要するにハイ・リスク、ハイ・リターンとなってきているのである。

 午後9時を過ぎるとそれまでの負け額によっては、たとえ連続の大当たりを引き当てたところで、途中で閉店となってしまって負け分を取り戻すだけの時間がないという状況がでてくる。
 午後10時をまわり残り30分ほどになると状況はさらに切迫してくる。

 ここで客の行動は二手に分かれる。たとえ少しでも手持ちのお金を残そうと退店する人間と、30分あればたとえ1万円でも取り戻すことができる(という可能性も0ではない)と考えて打ちつづける人間である。10万円の負けが残り30分で9万円の負けになることもないではないが、それはごくまれであり、たいていはさらに負けを大きくする。
 
 それぞれあくまでも『自由になる(余裕)金額内での娯楽の範疇』としての話にかぎるが、一度くらいは若い人が若いあいだに他人のそういう(イタイ)姿を見たり自分で経験したりすることで「プチ・進むも地獄止まるも地獄」の状況に身を置いて脂汗を流すことも、長い人生においてはあながち悪い勉強ではないと思う。
 

 何年も前に読んだ朝刊の読者投稿欄に掲載されたある女性の一文が心に残っている。
 投稿者は五十代あるいはもう少し上の女性だったか。
 細かい部分は忘れてしまったけれど大筋と文章の雰囲気はこのようなものであった。

 『現在〇〇文学賞の受賞者の話題で持ち切りですが、この話題が出てくる時期になると、いつも私は複雑な心境になります。
 私の父は若い頃から小説に志して、結婚し私たち子供をもうけてからもずっと小説を書き続けていました。休日はもっぱら執筆にあて、私たちはどこにもつれて行ってもらったことも、遊んでもらったことすらありません。
 父は亡くなる年まで文学賞の新人賞に応募し続け、何の結果も残さないまま亡くなりました。私は小説というものに恨みに近い感情を抱いています』

 さらに父親を不憫に思う気持ちと、父親の人生の巻き添えをくったかたちの自分たちが抱く複雑な思いの葛藤が綴られていたようにも思うのは、投稿を読んだあとに長い時間をかけてぼくの頭が勝手に作りだしたことかもしれない。

 いうまでもなく、小説に志す生涯を送った人と、閉店まで粘るパチンコ客とを照らして云々ということではない。
 さらにいうならば、投稿者の父親の人生について赤の他人が気安く論ずることも、その心中を忖度することもできないだろう。

 けれどもまったく脈絡のないこのふたつのエピソードが、ぼくの中ではどこかで重なっているように感じるのも正直な思いなのである。

 ぼくは今年51歳になった。
 もう何もできないという歳でもなく、頑張れば何でもできる、何にでもなれるという歳でもない。

 まるで人生の午後10時15分にいるようやな、
 ふと、そう思うことがある。

 けれども
「午後10時15分の愉しみ」はこれからだと思っている。
 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 
 

  

 
 

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