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あらためて給食のはなし。随筆のような

定期的に驚くのが、ツイッターのタイムラインに未だ(定期的に)「小学校の給食の完食強要はひどいじゃないか」という呟きがあがってきて、未だかなりの数の共感者が「そうだ! ひどい」と声をあげるということだ。 
それも、ぼくと同世代がつらかった昔を思い出して、ということでなく、いまの一部の子どもたちも同じようなつらい思いをしているということに愕然とする。

最初に、定期的に驚く、と書いたが、それは定期的に「昔と変わらない現状に対して怒り」ついでに「自身の体験に対して思い出し怒り」をしてしまうということでもある。
給食は楽しく美味しいもののはずなのに怒ってばかりだ。

ぼくが小学生の低学年だったのは昭和四十年代の半ば。
先に書いてしまうと、以下はお約束の酷い目に遭った自慢でもあるのだけれど、小学二年生の初めまでのことだ。それ以降は給食は待ち遠しい時間になった。
つまり、同じ子どもでも年齢が変れば事情も変わる子もいる、そもそも子ども一人ひとりに事情があって当然だということなのだ。
ぼくが苦しんだのは、量、であって好き嫌いではなかった。
その「量」も家では普通に食べられる量だった。
当時五十代(いまのぼくと同じ)の女性の先生が怖すぎて、給食の時間になると、お腹はものすごく空いているのに食事が喉を通らない、という状態になってしまったのである。
すぐに給食の時間自体が恐怖となった。

給食の時間内に食べきらないと、昼休みのあいだも、掃除の時間も、午後の五時間目の授業中も机の上の給食を片づけさせてはもらえない。
一番つらかったのは、掃除の時間に他の机と一緒に一旦教室の後ろにダーッと寄せられて、埃の舞う中でも食べ続けさせられることだった。
掃除の時間、一年生の教室には当番制で六年生が何人か手伝いに来ていた。

放課後になると先生が教室の前の机で何やら書き仕事を始める。そしてときどき視線を上げてはこちらを睨みつけて舌打ちをする。
早く帰らないと親が心配する、と思うと泣けてきてよけいに食べられなくなった。

パンは三枚の内一枚は残して帰ってもよいことになっていたが、家なら普通に食べられるおかずが食べられない。牛乳も苦手ではなかったから、いま思えば何でもない量のおかずが食べられなかったのだと思う。
こぼした振りをして少しずつスプーンで足元に落とすことを思いついた。
一見名案のように思えたが、そう甘くはないということは小一のぼくにも分っていた。
三日目、図書室の隅で六年生に囲まれて蹴られてビンタをされた。
先生には言わなかった。
六年生の怒る気持ちも、最初からわかっていたからだ。

放課後、給食とにらめっこをしていると、先生に耳を掴かまれて机から引きずり落とされた。
一度や二度ではない。
椅子がひっくり返り、ぼくは床に倒れる。
泣いた。
「ええかげんにしときや」
と先生は怒っていた。

隣りの組にはおかずとパンは食べられるのに、どうしても牛乳が飲めない男子がいた。彼も放課後までぼくと同じ状況にいた。
その子は放課後、男性教師に頭から牛乳をかけられた。
「大人になったらコーヒー牛乳を飲むわ」
彼が思いつめたようにそう言っていたのをいまでも憶えている。

そんなこともあって、ぼくは自分の子どもが学校に入り、給食が始まったとき、ひどく心配をした。
長男のときも長女のときもだ。
幸いなことにふたりともぼくのようなことはないようだった。
子どもたちがお世話になった小学校では、どうしても苦手なおかずや、体調の悪い日は、最初からよそう量を減らしてもらえるようになっているとのことであった。

はっきり言って、あのとき、先生たちがあそこまでして給食の完食にこだわった理由がわからない。
偉いヒトたちが決めた方針であり命令だったのだろうか。
食べ物を残すということ自体、悪いことだというのならばそうなのかもしれないし、給食は食べ物を大切にし、もったいないことはしてはいけない、ということを教える時間でもあるだろう。
しかし、ああまでして小学校の低学年に完食させる必要があったのだろうか、といまでも思う。

少なくとも、いまの子どもたちにとっては、信じられないような昔話、
「昭和の怖い話」でなくてはならないはずだ。






  

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