やぁ。

 女の子の赤ん坊を抱いた母親と小さな男の子が写った一葉の写真。
 飴色に変色したその古い写真は、現在のものに比べればふた回りほどサイズが小さく、印画紙の層がはがれて傷んだ縁と、表面に浮いたひび割れが写真の経てきた年月の長さを示している。

 写真の中の三人の親子は並んでベンチに腰掛けている。
 男の子はみっつ(三歳)ほど。まだ幼稚園にも行っていないだろう。

 男の子は〈オバケのQ太郎〉が大きく編み込まれたセーターを着て、母親に引っ付くように座っている。
 オバQのデッサンが少々不細工なのはご愛嬌。セーターは母親の手編みであり、男の子の大のお気に入りなのだ。

 どこかの公園なのだろうか。背後に池が見える。写真の中では小波に跳ねる日差しも飴色に光度を落としている。
 ピントが少し甘い、と感じてすぐに思いなおした。ピントが甘いのはぼくの目の方なのだ。いまでは老眼鏡なしでは小学校低学年の教科書の文字もろくに読むこともできない。

 老眼鏡をかけ、あらためて写真を見つめるうちに、写真の中の三人がたまらなく愛おしくなって、ぼくは思わずその男の子に話しかけた。
「なにがそんなに嬉しいんや?」
 写真の中の男の子はなにも応えず、ただ大口をあけて笑っている。
 その笑顔につられて思わず微笑むと、胸の奥がじわりと熱をもった。
 母親が抱く赤ちゃんは生まれたばかりの妹であり、カメラを構えているのは父親なのである。

 心の底から笑うことの幸せ。ちょっとしたことにも震えるような幸福感を覚えた子どものころ。
 男の子はまだ未来という言葉も希望という言葉も知らないのに、全身で何かを感じ予感している。

 そして、全力で笑っている。

「この笑顔を裏切ったらあかんよな」
 家族やまわりの人々を全力で愛し、嬉しいときには全力で喜び、悲しいときには全力で泣く。それでよいのではないか。

「そうそう、自分は自分。肩のチカラを抜いてがんばったらええねん」

 写真の中から男の子の声が聞こえたような気がした。
 それは49年前のぼくの声だった。

 おっちゃんになった自分をどう思てる?
 おっちゃんになった自分はその笑顔を裏切ってないか?
 おっちゃんになった自分もええ感じか?

 ぼくは、もう一度そう問いかけた。

 そして、仮面ライダーのカードやミニカーを詰め込んだブリキの菓子缶にそっと写真を戻した。

 

 

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