おじさんたちの How are ya?

「調子はどうや?」
 同世代の友人などに久しぶりに会ったとき、ほぼ無意識にそう言ってしまうようになった。年齢やそのときどきの自身の暮らしぶりによって、人のあいさつも変化するものなのだろう。
「なんの?」
 と笑顔で聞きかえす友人には「全体的に」と笑い返す。
「ぼちぼちやなぁ」
 あるいは「まあまあ」と応える友人には「そうか。ぼくもや」と返す。
 

 無意識にもれる「うーん」という声を押し殺しながら、最初のひと言が見つからないのか、目を閉じてなんども小さく頷く友人には、
「そうか。ぼちぼちか」とぼくが先に言う。
 この歳になると、誰かがさて何から話すべきかと思いあぐねる場合、それが好い話であることは少ない。
 すると友人は、ぼくに先を越されたことで幾分拍子抜けしたように(あるいはほっとしたように)
「おう。ぼちぼちや」
 と、やがてなにかしらの強い決意と覚悟を秘めた口調で、笑顔を向ける。
「おう。ぼちぼちがなによりや」とぼくは笑い返す。

 いままで漠然と想像するだけだった、たとえば50代になった自身の健康問題や、将来における経済的な問題などの、数々の不安要素が実体をともなって迫ってくる年齢になった。しかもそれらは身震いするほどにリアルで深刻でもある。できれば問題諸氏には、順番に穏やかに現れてほしいし、できれば目を合わさないことで先送りし続けたいのだけれど、そうしたものは得てしてこちらが狼狽えるほど突如として現れるものである。
 人がそれぞれが抱えている問題や不安は、大小も含めてその人数と同じだけの数(種類、内容)があるのだし、人生の浮き沈みを天気に例えて「良い時も悪い時もあるさ」と幾分軽いタッチでいわれることもあるけれど、なるほど長い人生には、どう考えても「梅雨」のようなときがあるということも、身に染みている。

 もちろん傘を差し伸べてくれる友人もいる。
 けれど、ずぶ濡れになりながら自分で決着をつけなければならない、あるいは闘い続けなければならないことの方が遥かに多い。

「ほなまた。(天気が良い日に会おう!) 」
 と、お互い右の拳を胸の前に小さくあげて、おじさんたちは無言のうちに共感と同情とエールを交わして別れるのである。

 
 

 
 
 

 

 

 

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