「紙ジャケ」  掌編小説

ある日彼女はリサイクル・ショップに出かけた。息子が使わなくなったゲーム・ソフトを買い取ってもらうためだ。
 一緒に来るかと訊いたが、けっきょく息子は来なかった。手放すつもりのソフトが幾らにもならないと踏んでのことだろう。売れたお金は僕にちょうだいよ、と言っただけだ。
 休日のリサイクル・ショップは人で溢れていた。息子が来ないのならば平日の空いているときにひとりで来ればよかったと思った。
 いままでこの店で多くの中古のソフトを買ってきたが、買い取ってもらうのは初めてだった。人から聞く話では、買い取りの金額は期待してはいけないらしい。
 査定のカウンターにいる青年にソフトを渡す時にはなぜか少し緊張した。ソフトを受け取る青年の表情をさり気なく見てみたが、青年は終始礼儀正しく、そして無表情だった。十分ほど待ったあと買い取り価格が提示された。
 彼女は金額が書かれた紙面を二度見三度見しながら、人間は時として本当に〈口をあんぐりと開けたまま固まってしまう〉ということを知った。
「茫然自失、か」
 受け取ったお金を小銭入れの中に放り込み、店内を見て回りながら、彼女はその時の自分の顔を想像してちいさく噴き出した。

 店内の一角に中古CDのコーナーがあった。背の高い陳列棚が両側に迫り、どこか外国の細い路地を思わせる。
 中学、高校そして社会に出てからも人並みには音楽と親しんできた。けれども、もう何年もCDを買っていないし、昔聴いていたCDも実家に置いてきたままだ。いまは、テレビから流れるどれも同じに聞こえる若者の音楽を聴くともなしに聴くだけだった。彼女は、それでもとくに不自由を感じないこと自体、歳をとったせいかしら、と少し寂しく思った。
 彼女は洋楽の棚をアーティスト名のAから順番に眺めていった。
 認めたくはないが、最近細かい文字が読みづらい。
 正面を向けて置いてあるCDのジャケットを眺めていく。すると、その中にほんの少しだけサイズの大きなCDがあった。微かな違和感はそれが真四角だからだと気づいた。
―――あ、このアルバム。
 彼女はEの欄に見つけたそのアルバムを手に取った。
 そのアルバムは、昔のLPレコードと同じように厚紙でできたケースに入っていた。苦労して帯の字を読むと、LP時代を懐かしむためにマニア向けて発売された紙ジャケ・シリーズというらしい。
「懐かしい」
 思わず声が出た。
 高校生の時、少しの間だけ付き合ったことのある男の子にプレゼントしたアルバムだった。クリスマスだったのか彼の誕生日だったのか。それとも別の何かだったろうか。
 プレゼントしたアルバムを覚えているのにそんなことも思い出せないのは、つき合ってすぐに振られてしまったからだ。だから今となってはその男の子の顔もぼんやりとした記憶の彼方だ。
 ジャケットを見ているうちに、そのアルバムを買った時のことを思い出した。
 レコード店で何にしようかと悩んでいた時、偶然同じクラスののび太君に会ったのだった。
 のび太君はクラスでいちばん目立たない男の子だった。
 見たままのあだ名をつけられた彼は、クラスの男の子に時々からかわれていたように思う。時々だとか、からかわれていた、だとか、思う、なんていう表現をしたところで、自分の弱さを含めて何も誤魔化すことはできないのだけれど。
 その証拠に、のび太君の本当の名前すら思い出せない。
 レコード店に入って来たのび太君は、少しバツが悪そうな軽い挨拶をしたあと、奥の方にある棚に向かうと、ぎっしり入ったレコードを順番に見はじめた。レコードの端を少し持ち上げてはストンと戻す。トントントンッと心地よいリズムが、のび太君がここの常連だということを物語っていた。その光景すべてが意外だった。
「なあ、彼氏にレコードをプレゼントしようと思うんやけど、何がええと思う?」
 のび太君に声を掛てみた。のび太君はほんの一瞬だけ、学校で誰にでもそうするように少し身構えたようにして「え?」と言った。
「お薦めのレコード、何かない?」
 彼女が言うと、のび太君は少し考えた後、
「どんな感じのがええの?」と訊いた。
 その時ののび太君はすごく頼もしく思えた。自信というか、余裕というか。学校でののび太君とはまったく違って見えた。
「外国のロックで、ギターがかっこ良くて、あまり激し過ぎないやつ」
 ほとんど思い付きで言ったのだが、のび太君は一枚のアルバムを薦めてくれた。それがエリック・クラプトンの「スロー・ハンド」だった。
 彼女はシンプルなデザインのジャケット写真も気に入って、それに決めた。
 レジで支払いをする時、店長らしい男性が嬉しそうに話しかけてきた。
「きみ、彼と友達? 彼な高校生やけど大人でも舌を巻くブルース・マニアや。彼はまだ高校生やからあんまり買えんやろけど、いつも悩んで悩んで渋いの選ぶよ。ああ、クラプトンはすごくええよ。安心して」
 その後、のび太君にお礼を言っただろうか。たぶん、言っていない。その後、学校で会話をした記憶もない。
 彼女は「スロー・ハンド」を聴いてみたくなって、十数年ぶりに自分用のCDを買った。中古だから、当時のLPレコードのちょぅど半額だった。

 平日のひとりの時間。
 彼女は小さなCDラジカセに「スロー・ハンド」をセットした。
 のび太君にとって高校生活は楽しかっただろうか。楽しかったよ、と言って欲しいけれど、彼にとってあまり居心地の良い世界ではなかったのではないだろうか。
 プレゼントした彼は、私はともかくこのアルバムを気に入ってくれたのだろうか。のび太君の選んだアルバムは渋過ぎて高校生にはお気に召さなかったのではないだろうか。
 みんな幸せでいるだろうか。
 ワンダフル・トゥナイトが静かに流れる。
 紙ジャケの角が、ほんの少し涙でふやけた。

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