テレビ

 どこからどうたどり着いたサイトだったか思い出せないのだが、ある女性が、プロフィールとしてお書きになっていた一節が印象に残った。詳細は忘れてしまったけれど、こんな感じの文言だった。

「テレビは、鍋や下着などの通販番組ばかりを見ています。悪い人が出てこないから安心して見ていられるので」

 ぼくはこのかたの気持ちがわかる気がした。
 おそらく、悪い人とはドラマの中に出てくる殺人犯だとか、怖ろしいストーカーだとかを指すだけではないと思う。
 報道番組を見ればドラマを上回る悪行が毎日のように更新されているし、お笑い番組を見れば、パワハラの構図そのものの演者のやり取りが『面白いこと』として届けられている。
 見る人にとっては、年長の芸人の若手芸人に対する度の過ぎたカラカイや、傷みや恐怖を強要をする姿は、現実の世界と重なってリアルに不愉快に(怖ろしく)映るだろう。
 ぼく自身も、何年か前に著しく体の調子を悪くして精神的にも疲弊の極みにいたとき、淋しまぎれにテレビを見ようと思ってもそうした暴力的な刺激に耐えられずNHKの教育テレビばかりを点けていたことがあった。

 そしてもうひとつ思い出したことがある。ほとんどモノクロに変わりかけた遠い記憶だ。

 ぼくは、一般家庭にもテレビが普及しはじめたころにウルトラマンや仮面ライダーを夢中で見た口で、テレビで同じ番組を見ることで街の子どもと田舎の子どもが同時に同じ話題を共有できるようになった最初の世代である。

 そのころのテレビの記憶のほとんどは楽しく面白いものだが、当時からお笑い番組の一部の演出には度の過ぎたところがあった。
 他人の容姿や能力をあからさまにからかったり馬鹿にしたり、あるいは失敗を叱りつけたりして笑いを取るシーンが少なくなかったのである。むしろそのころの方がある意味弱者に対して容赦がなかったともいえる。
 太った人や、背の低い人、歩く姿が人とすこしちがう人、髪の薄い人、吃音の人、勉強の不得手な人、さらに当時は特定の職業につく人を駄目な大人を馬鹿にするときの代名詞のように扱うこともあった。
 自己憐憫になってしまいそうで50歳を越えていまだ詳細な文章にはしていないが、わが家にもテレビの中でカラカワレルような対象(要素)があった。病気によってもたらされたもので、当事者や家族にしてみれば笑いの要素どころか深刻を極めた問題であった。

 小学校に入ったばかりのころは、テレビを見ていても、そうしたコントのコーナーになると子ども心にも緊張を覚えた。
「自分と同じ境遇の人が馬鹿にされるのを見れば誰でも心が傷つく」ということは、子どもにも想像できたのである。
 コントの流れを読むことに敏感になり、これはヤバイ、これは大丈夫とわかるようになった。
 ぼくは対象者が「どっ」と笑われるタイミングまでに、席を立ったり「思たより面白ないやん」と、チャンネルを替えたりした。
 けれどもしょせんは低学年の子どもである。読みを誤ったり、チャンネルを替えるタイミングを逃すことの方が多かった。
 そんなときはコントが終わるまでの五分、十分は長かった。
 とはいえ、当人から(不快だから)チャンネルを替えて欲しい、と言われた(頼まれた)ことはただの一度もない。
 もしかしたら子どものぼくが気を揉むほど当人は気にしていなかったのかもしれないけれど、そんな甘い話でないこともその後の来し方を見ればわかる。おそらく当人は家族のために、生来の優しさと強さを以て気にしない・気にさせない心の工夫を体得していたのだろう。

 ぼくたち田舎の子どもにとってテレビは宝箱だった。
 そして、子どものころの楽しかった記憶は、どこかで必ずテレビとリンクしている。
 いまとなっては、わが家の事情とテレビにまつわる話も、貧しいながらも協力し助け合ってきた家族の歴史の一幕であり、愛しく大切な思い出である。


 

 

 

 

 
 
 
 



 
 

 

 

 
 
 

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