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にぎやかな静寂 「初めてのコンサート」

 高校生のとき、ともだちの何バンドかが集まって、初めて自主コンサートというものを開催した。
 もう三十五年近く昔のことになる。
 会場は市民会館の小ホール、といっても大きめの会議室程度の広さ。
 そこにしょぼいドラムセットとバケツほどの大きさのアンプを並べ、記憶はあいまいだけど、マイクもボーカル用のスピーカーもたぶん講演などで使う備え付けの設備をそのまま使った。バランスも音質もあったものではないが、当時はそれが精いっぱいだった。実力に見合っていたし、それでも十分に楽しかった。

 会場を予約するにあたっては、高校生だとなにかとややこしいだろうということで、イベントの音頭取りでもあった別のバンドの小林君(仮名)の親父さんの名義で借りてもらうことになった。
「サマー・ロック・フェスティバル!」
 のような、こ恥ずかしいイベント名を書いた手作りのチケットを皆で売った。イベント名のどこかに「ヤング」も付いていたかも知れない。
 チケットは一枚二百円ほどだったと思う。

 コンサート当日の朝のこと。
 ぼくがメンバーと会場に着くと、小林君はすでに来ていた。
 するとなにやら困ったような申し訳なさそうな変な顔をしている。
「親父がな、自分の名前で会場を借りてくれよったんや」
 小林君が言う。
「知ってるがな、ありがとうな。世話になって。親父さん、今日来てくれてはるんか?」
 ぼくがそう言うと、小林君は
「いや」
 とだけ答え、二階の小ホールへと上がる階段を顎で指した。

 階段の上り口、手摺りの下に縦長の黒い板が立てられていた。
 旅館の前などに白い達者な文字で「歓迎 〇〇様御一行」とか書いて並んでいるあの板だ。
 本来、小ホールは会合などがメインだから、普段は「〇〇研究会会場」だとか「〇〇愛好会・研修会場」などと書かれてそこにあるのだろう。

『小林春男 フェスティバル』
 黒い板には自信満々の白い文字で、そう書かれてあった。

 面白い、のだけど笑えない。
 皆が泣き笑いのような顔になった。

 文字数の関係だろうか、サマー・ロックは勝手に省略されている。

 大人になったいまならば、文字を書き換えてもらうなり、そもそもそんな看板は要らないのだからとどこかに移動したりと、いくらでも方法は思いつく。
 けれどもそのときはその板に触ってはならないという頑なな思い込みしかなかったのである。
 いま思い返しても情けないやら恥ずかしいやらの複雑な思いだったが、当の小林君が「小林春男 フェスティバル」の文字をどんな思いで見ていたかと考えると、せめて裏返して立てておく程度の知恵がどうして働かなかったのかと悔しくもある。若さゆえの馬鹿さ加減はつくづく哀しいものなのだ。
 

 そしてその日、もうひとつ変てこな出来事があった。
 コンサートが始まってしばらく経った頃だった。
 「代表の人、誰か電話に出てください」
 と事務所の人が楽屋に来た。小林君が事務所の電話口に向かった。

 そしてしばらくすると、小林君がまた困ったような顔で戻った来た。

「あんたらコンサートで自分の歌を唄うてるんか? て訊かれたから『コピーです。オジー・オズボーンとかマイケル・シェンカーとか』て答えたんや」
「それで?」とぼく。
「ほな、〇〇〇料、一万円ほど送ってもらおか。て言われた」
 と小林君は言った。送り先も聞いて控てきたようなことも。

 世の中に〇〇権、〇〇権料というものがあることは知っていたが、誰の作った何と言う曲と何という曲を何曲演奏したか、いくらの料金でお客に聴かせたのかということを一切訊かずに「ほな一万円ほど」とは、何やねん、と皆で憤慨すると同時に、こんな田舎の小さな会場で高校生がコピー曲を演奏している、という情報をどうやって掴んだのか、と怖ろしくなった。

 もう三十年以上も経っているし時効だろうから言うけれど、たぶん小林君は途方に暮れたまま結果的にバックレたと思う。
 あるいは、後で春男さんが払ってくれたのだろうか。

 



 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 
 
 



 

 
 

 
 

 
 
 

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