こんな時代でも「愛してる」を「愛してる」という言葉のまま、時にはストレート豪速球を投げてみることについて【機動戦士ガンダム SEED劇場版感想】

さて、本日ガンダムオタの友人に連れられてガンダムSEEDの劇場版を観てきた。

かく言う私は、SEEDはまったくの初見であり、ガンダムは水星の魔女の一期を視聴しただけであるが、お誘い頂いた友人にホイホイついて行った次第である。

ここからは下は感想になる為、まだ観ていない方はそっとスワイプして消して頂くことを推奨する。

こんな時代でも「愛してる」を「愛してる」という言葉のままストレート豪速球を投げることについて

簡単な私の自己紹介だが、
私は20代半ばの女性であり、10代の多感な時期を幾原邦彦監督の「輪るピングドラム」や「少女革命ウテナ」と共に過ごした。
そんな私からすると、同じく平成を代表するSEEDはぶっ刺さらないわけがない。

SEEDの劇場版を、
誰にでもわかりやすく陳腐な言葉で形容するなら、まさしく「ゼクシィ」で。
令和という時代に観るならば、
「結婚しなくて良い時代に、貴方と結婚したいのです」という圧倒的な強さを感じる。
これだけ簡易な言葉で言うと押し付けがましくなってしまう気もするのだが、SEEDの物語の強さについて幾つか語らせて欲しい。

令和という時代を生きる若者の端くれとして
(私がまだ若者にカウントされるのかは甚だ疑問だが)、「愛」について声高らかに語り、貴方を愛しているのだと表明するのはなんだか、白けてしまうし、モノローグで愛を囁くなんてそんなことは令和を生きる恋人たちには気恥ずかしく難しい。ハードルが高い。
フィクションの中でさえ、愛を愛という言葉のまま叫ぶことも難しい世の中だとうっすらと思う。

今、新たに、例えば「真実の愛」といったテーマの物語を新作アニメで編もうとする時、それは果たして「愛を語るなど馬鹿らしい」という昨今の空気感に飲まれることなく世界の中心で愛を叫ぶことができるのか。
その物語は、愛や恋や、もしくはそれ以外のものに疲弊しきった鑑賞手の心の奥底にきちんと届くのか。

そう考える時、今の世の中じゃ真っ向から「愛してる」なんて、創作でも言えないんじゃないかと思う。
これはあくまで例だけれど、ジブリ作品も新海誠作品も、今はもう終幕したがエヴァシリーズも、作品は常に時代を映すし、そこに暮らす人々の空気感を反映する。していると私は思う。
私が作り手の立場なら、真っ向から貴方を愛しているんだと伝えたいと願っても、
愛を声高らかに表明することさえ、薄ら寒く感じられちゃうようなこんな世界じゃ、伝えたくても口を噤んでしまいそうになる。

これはぼんやりした記憶になるのだが、
私の敬愛する幾原邦彦監督も、
「RE:cycle of the PENGUINDRUM」の
試写会か、舞台挨拶か何かで
「愛してる」を「愛してる」という言葉のまま言っていいのかという危惧について語っていた記憶がある気がする。(ぼんやりしているので違っていたらごめんなさい)

創作する者の端くれでもある私は、
「愛してる」という事実を伝えるためだけに何万文字ものラブレターを書き連ねていると思う。たったそれだけの5文字を伝えるために私は沢山の遠回りをする。そうしなければ言葉が陳腐になってしまう、実感のないだけの文字列が独り歩きする。物語を描くのならばそうなりたくはないのだ。

そこで、私はSEEDについて思いを馳せる。
20年も前の物語を再構築しようとする時、
きっとこんな世の中や時代の空気だとか、
この時代にSEEDを構築する意味について、
きっと沢山考えているはずだと思うのだ。
だからきっと、SEEDが放映された2002-4年のように、令和の時代に「愛してる」って言っていいのかという疑問にはぶち当たったのではないのかと思うのだ、勝手に。

でも、それでも。
「愛してる」という言葉を何がなんでも吐くのだと。SEEDは物語を通じてそれを明確に表明する。なぜならSEEDというアニメがそうだから。
といった確固たる気概を、何がなんでもSEEDをやり遂げるんだという思いみたいなものを感じた。
そういうことを成し遂げてくれたこと。
そしてガンダムSEEDという作品だから届けることができた、という事実に、私はとっても感謝したい。

きっと、令和の時代に新しく作られるアニメならば、これほどの効力を持ってして「愛してる」という呪文を唱えることなどできなかったと思う。
平成の、沢山のアニメが物語を持ってして「愛してる」と叫んできた、そんな時代のアニメだからこそ、真っ向から「愛してる」というストレート豪速球を打てるのだ、恥ずかしげもなく、これがSEEDであると愛を叫ぶことができるのだと思った。

時代が変わって、
男が女を愛してもいいし、女が女を愛してもいいし、誰のことも愛さなくたっていい時代だし。
無機物を愛しても有機物を愛しても(人様に迷惑を掛けなければ)いい時代である。
でも、誰かが誰かを心の底から愛する、
そういった原初的な熱源は、
20年前から何も変わっていない。

誰が誰を愛しても、自由な世の中だけれども、
人間の根源的な熱源は忘れずにいたいし、
表明していきたいよね。と思う。

令和を生きる我々は愛という言葉をチープだと
斜に構えてしまうけれども、
時には恥ずかしげもなく囁いていいし、
叫んでみたっていいよね。

だから、SEEDの映画は、
20年待ち続けた人だけでなく、
ガンダムを見たことがある人だけでなく、
今を生きてる沢山の人達に観て欲しいし、
届くべき物語だと思うし、届くはずだ。

PS(?)
私はSEEDの物語が、
水星の魔女が終わってからすぐの、
この時代に公開されたことに大きな意味があると思う。とにもかくにも、出会わせてくれてありがとう。
物語がたくさんの人の心に届くことを祈っています。

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