生存戦略に忠実な 動物の方がよっぽどシンプルで美しい。

「人は、何のために生まれるのか。
あくせく毎日を過ごすためだけに人が作られたのだとしたら それは何かの罰なのか、
それとも、皮肉なジョークなのか。
そんなんじゃ、遺伝子にプログラムされた
生存戦略に忠実な 動物の方がよっぽどシンプルで美しい。」

アニメ『輪るピングドラム』第一話   より

これは、『輪るピングドラム』第一話の
高倉冠葉の台詞である。

今、私はベッドの上で主題歌の「ノルニル」を聞きながらこれを書いている。

とくに取り留めのない話をつらつらとさせて頂くが(もともとインターネットはそういうものだと思っているし、ネットの海に漂う漂着物のひとつのようなものでありたい。最近のあらゆるものに意味を求められる社会が正直しんどいと思うし、意味なんかないだろと思う。)

初めて、ピンドラを観た10年前、
十四歳の私は 自分が高倉兄妹のように
「こんなにも誰かを愛する」ことができないと知る。

だからこそ、私は物語の虚構の世界の中でなら、こんな風に誰かを愛することができる。
現実で叶うことのない愛を、虚構の中でならば追体験し、ひりつくような愛を表明することができる。と思うし、今なお思っている。

けれど、どうしても、現実を生きることが怖くなる瞬間がある。

この世界ではやはり、真っ当に仕事をし、
異性と出会い、後世に遺伝子を残していくことが動物としての最善策のように思えてしまう。

そう考える時、自分は
未来に対して何かを残していけるのだろうか。
遺伝子は、残せない。
現実世界で誰かを愛し、慈しみ
誰かの隣で息をする世界を選びとることが私には難しい。
子は、成せない。遠い未来に、私の遺伝子や、
私の親のそのまた親の遺伝子はきっとない。

そうなった時、
どうやって私が生きていたことを表明すればいいのだろうと不安になる。
(意味を求められる社会において、人生なんて「ただ生きて、ただ死ぬだけ」と自分の人生のハードルを下げながらも、やっぱり人生なので、ちょっとくらい自分が生きていた証拠みたいな、意味のようなものを残したいという矛盾が生じていて笑ってしまう。)

子を成すことはできない。
私が死んでしまったあとの世界で、
私のことを覚えいてくれるひとはいない。

私はそれがすごく恐ろしいと思う。
それに、私の過去のnoteの下書きをみるに、
子を成すという人間の根源的な
動物としての営み
それに対する 自分が望んでも得られないであろう普遍への憧憬みたいなものが正直めちゃめちゃある。

その憧憬や、不安に抗うためにも、
(もちろんそれだけが理由ではないけれど)
普通の人間が、普遍的に家族をつくり
子を成して、遺伝子を繋いでいくように、
自分の痕跡が、何一つ残らない未来で、
私が書いた物語や産んだキャラクターが永遠に生きてくれたらいいと思うし、
ジーンは残せなくてもミームは残していきたいと思う。(これ誰の言葉でしたっけ)

そのために、二十四歳の僕は
他者と芸術をやるし、物語をつくる。

(あくせく過ごしているとそのことを忘れてしまうから、今日はそんな取り留めのないことを記しておく。おやすみなさい。みんな、温かいお布団で寝てね。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?