「殴りながら相手を理解していくという悲しい暴力行為は、」

今日、芝居を観た。
面白かった。
ぼんやり考えたことをつらつら書き出す。
これは感想ではなく、備忘録である。

タイトルに引用したのは、
寺山修司の「あゝ、荒野」の一節である。
私は折に触れてこの言葉が、
「ほんとうにそうだなぁ」と思うのに、原作はまだ読んだこともない。(映画はうっすら見たことがある)
私が初めて、この言葉が身近に感じられたのは、自作のバトルファンタジー小説を書いていた時だった。
主人公はおよそ人の心と呼べるものがなく、故に他者を理解する/自分を理解する という手段のひとつに、「殴りながら相手を理解していく」という行為が発生する。

では、私にとって「書く」ということはどういうことか。
言葉を紡ぐ人間にとっては、書くという行為が自分にとってどんな意味を持つのか、どんな立ち位置で自分の中に根を張っているのかについては、定期的にアウトプットする必要があるのではと思う(わからんけど)(少なくとも私はそうである)

もちろん、表現したい、書きたい という欲求はある。しかし、必ずしも無から有を生み出しているわけではない(私の場合は)
何かを 見る/思う/感じる/考える
その時にはじめて湯水のように言葉が湧き出ていく。
では、それはどんな時か。

「殴りながら相手を理解していくという行為」が、
私にはそのまま
「書きながら何かを理解していくという行為」
であると思う。

世界をもっと、細かい目盛りで観測したい。
自分が認識している世界の解像度を上げたい。
言葉にせずに、眺め見ている世界は
どうやらとても薄ぼんやりしているように思う。

だから、私は自分がもっと理解したいだとか、
この世界でどんな思いを持って生きている人がいるか、とか。この世界をどんな尺度でどんな風に眺めているか、それを「知りたい」「深く理解したい」と考える時に、言葉で以て観測し、世界をより細かい目盛りで捉える手段のひとつとして「言葉」を用いていると思う。

うっすらそんなことを思っていたはずなのに、
明確に言語化し、「理解しよう」と試みるのはおそらく、はじめてである。私の場合、色んなことを言葉に落とし込んでみてはじめて「理解」に辿りつけるような気がする。

だから私は「知りたい」と思ったバーバパパのことも、まるで未知との遭遇のように真新しく全てを解体し、修飾しすぎな程の言葉で再構築をしている。それが私の「理解」のひとつの手立てなのだと思う。(バーバパパについては、長くなるからまた別の話だ。)

今日の所は、ひとまずこのような備忘録を残しておく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?