見出し画像

悲しみ担当、でもいい

このところ実際に会えなくなってzoomでこんなんやりました!やyoutube、instaで動画デビューする人も増え、各々の表現の彩りも技術も急激に豊かになった。

そっち側になったり、それを享受する側になったり、する人/時がある一方、その間に境界線を感じ、そこに乗れない、今はそこから距離をおきたいと思っている人もいる。

SNSでの表現が盛んになる一方、その裏側で一時的に癒されたりごまかされたりしても虚しさや孤独感を感じている人の悲しみを感じる。

この悲しいという字をよくみてみると心あらずとも読め、余計悲しくなって、成り立ちを調べてみると以下のようにある。

“悲しいの「悲」の漢字は、「非」が羽が左右反対に開いたさまから、両方に割れる意味を含み、悲は「非+心」「心+音符非」で、心が調和統一を失って裂けること、胸が裂けるような切ない感じを表す。哀しいの「哀」の漢字は、「衣」が被せて隠す意味を含み、哀は「口+衣」で、思いを胸中に抑え、口を隠してむせぶことを表す。”

羽が折れて飛べないさまや心の声を押し殺している様は本来のありのままの可能性を感じているのに発揮できていない状態の苦しみがある。

そこにある本当の願いを知るために、悲しい“私”を否定するのではなく、とことん寄り添って時を共にしてみる。横に座って同じものを感じ同じものを見てみる。

その“私”が今一番欲しいもの望んでいるものが分かるまでとことん付き合ってみる。

映画でも観ながらお酒でも飲みながら、
そんな光を少しでも感じたら少しずつ一緒に言葉にしてみる。
その今本当に欲しいものために
自分が今この瞬間にしてあげられることが一つあるとしたらそれはなんだろう。
それを渡せた時、受け取った時お互いどんな気分だろう。
そのあとお互いの何が変わっていくだろう。

悲しみは希望と歓びの種である。
その種を見つけた瞬間にそれはもうどちらの種でもなくこの社会の世界の種として存在している。
世界への貢献の一つの潜在的なかたち。

悲しい、には充分な愛が必要だ。
ないことにしたり、ごまかしたりしているうちは種は種のまま何週間も何年何十年もずっとそこにあり続ける。
悲しみにも役割がある。
出会ったらご縁、
その可能性を芽吹かせるきっかけは誰でもが創ることができる。

#しつらえる #悲しみの種 #SNS #動画デビュー #愛の注ぎ方 #慈しむ #共有財産 #可能性の種
#あなたがいてくれてありがとう





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?