始めるということ

スープジャーに料理を仕込み、仕事に持っていくということを始めようと思っている。
今日はその初日だった。
鶏肉や野菜、きのこを煮込んだ具沢山のスープを、空いた時間にベンチで食べる。前日から作っておいたおかげで思ったよりもおいしく大変満足した。

この2年ぐらいのおれの食生活は、朝食に一番のウエイトを置くことになっている。夕食は酒とすこしのつまみくらい。空腹ぐらいの状態で眠る。
朝、負債のないからっぽの状態で起きると、なんとか一日を立ち上げる気力が維持できる。
そこで問題となるのが昼食だ。この流れで行くとだいたい、毎日15時から夕方ごろにかけて本格的な枯渇のタイミングを迎える。ただしその時間になるとコンビニに行ってもおにぎりの選択肢にさえ貧してしまう。カレーメシを食べて乗り切るような事態はあまり好ましいことではないと感じていた。

その点、スープジャーはおそらく、すくなくとも今後数日間にわたってはおれの食生活に明確な革新をもたらすはずだ。
ただしおれは、このスープジャーの未来を必ずしも楽観視していない。
近いうちに、何かのはずみに、一度でも棚の後ろの方に配置されたが最後、スープジャーは二度と使われることがなくなる危険性も常にひそめている。

なにか新しいことを始めるということには、最大限の緊張感、警戒感を常に携帯していなければならない。
「物事を習慣化する際には、続けるということにどれだけ慎重になってもなりすぎることはない」
こういうとき、村上春樹がどこかのエッセイに書いていた言葉をおれは思い出す。

続ける、ということは難しい。続ける理由と続けない理由を比べると、たいていの場合は続けない理由のほうがもっともらしく聞こえるものだ。
だからこそ、「続ける理由は続けるため」という自家中毒のような状態だけが、次の継続を生む。
初日にして、こうしてスープジャーの件を表明することは、退路を断つための決意と捉えて頂いて結構です。