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野坂昭如だって歯磨きしなかった

ビリッと強い痛みに、体が足先までぐっと反り返る。

「痛いですか」

先生に左手を挙げて応える。
診察台の上で口を開けたまま、緊張感で腕から足先までカチカチにこわばっている。
逃げ続けてきた歯科治療に五年ぶりで来たのだ。


六年前に取れた差し歯を放っておいたので、まわりの歯までボロボロになった。
それでも痛みがないのをいいことにそのままにしていたら、前歯がほとんどなくなった。笑うと歯欠けジジイでなんともみっともない。
だが都合のいいことに新型コロナ感染症の流行で、マスクを年中付けていても違和感を持たれない。

なさけない顔をさらさずにすむ。なおさら治療に行かない。


子供の頃から虫歯だらけで、歯がなかった。
乳歯が抜け替わり永久歯になってからの十年間はまだよかった。
甘いものが大好きなのに歯を磨かないから虫歯になる。
コーヒーには砂糖を五杯入れていた。
祖母は緑茶にも砂糖をたっぷり入れてくれた。
羊羹一本を食べるのが夢だった。

母親が砂糖でできているような人だった。
料理には何にでもこれでもかと砂糖を入れる。
卵焼きがすごかった。砂糖をたっぷり入れるからいつも真っ黒に焦げていた。
なぜうちの卵焼きだけ黒いのか子供の頃は不思議だった。でも甘いあまい卵焼きは美味しかった。

砂糖の塊のような和菓子が大好きな母は、三十代ですでに入れ歯だった。
わが家で虫歯は生活習慣病だった。


かつて野坂昭如が言っていた。
「俺は戦争が終わってから一切歯を磨いていない」
嬉しかった。
歯磨きしなくても大丈夫な人がいる。

だいたい動物は歯を磨かないし。
人間だけ歯磨きしないといけないのは不公平だと思っていた。
歯科医に行くと必ず歯磨き指導をされる。
医師には歯磨きしてないことがわかるのか。



歯の治療は痛い。必ず痛い。麻酔の注射が痛い。麻酔をしても痛い。

ビリリッ ギュリリ ズッキーン

寝ている間に終わればいい。
胃カメラ検査みたいに。
胃の検査ではいつも麻酔の注射が終わらないうちに気絶する。
検査の間は熟睡していて、目覚めると最高に気持ちいい。
胃カメラの麻酔はよく効くのに歯痛の麻酔はなぜ効かない。

入れ歯になるのかな。
入れ歯は掃除が面倒だ。入れ歯と歯茎の間に食べ物が詰まったらすごく痛いようだ。
それに入れ歯は怖い。
父の入れ歯がうまくいかなかった。何度行っても良くならない。痛いといえば我慢しなさいと言われた。とうとう別な歯医者に行った。

「これは他の人の入れ歯だ」と教えられた。嘘のような本当の話だ。



歯科治療ではうがいをするから、診察台を頻繁に寝かしたり起こしたりする。
覚悟を決めてまな板の鯉になっているのに、曲げたり伸ばしたりで腰も痛い。
何から何まで痛い。

やっぱり歯が痛いのがいちばん嫌だ。
 


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